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2005年10月24日(月)  アスファルトの上に倒れた人
最近、車の交通事故が増えているようですね。
人の列に車が突っ込み、というニュースを最近よく聞く気がします。

静岡のほうで、保育園児の列に車が突っ込んで数十人が病院へ運ばれたとか。猫をよけようと思ってハンドルを切って事故が起きたらしいけど、それほどスピードが出ていなかったので、死者が出るほどの惨事にはならなかったとか。(もちろん、当事者たちにとっては惨事なのだけれど)

ワイドショーで、車の運転手のことをインタビューされていた人がいた。
「温厚な人で、いい人」という話で、警察官が現場検証を行っているときに立ち会っていた運転手の映像が流れていた。言われれば温厚そうな顔をした人だと、私は映像を見て思った。
この運転手は確かに法廷速度を守って運転をしていた。

病気と違って事故は、一秒前にピンピンしていた人が、すぐ次の瞬間には血だらけになり足があらぬ方向へ曲がり、目も向けられないほどの悲惨な姿になってしまう。そして時に命をも奪う。
加害者と呼ばれる、たとえばこのときの運転手も、たとえルールを守って運転をし、猫を避けようとしたとしても、次の瞬間にはたくさん人の、或いは誰かの健康または命を奪ってしまう結果となる。

その一秒という時間が短いからこそ、事故は悲惨だと思う。

私の実家は、車の往来の激しい道沿いにある。
私が小さい頃、近所に住む親戚のお姉さんを、花火に誘った。
夏の夕方、きっとうちに遊びに来てねと私は電話で言ったのだ。
一人っ子の私にとって、そのお姉さんは姉のように親しんでいた人だ。
夕方になり、私がわくわくしながら花火の準備をしていたら、突然、高いブレーキの音と表現のしようのない鈍いどすんという音と、誰かの絶叫が聞こえてきて、そのお姉さんは私の家の前の道路で交通事故にあった。
道路に出た母が、お姉さんの名前を叫び駆け寄って、家にいた父もそのあとを追った。
私は、そのあとずっと、自分が花火に誘ったからお姉さんが事故にあったのだと思った。

さっきの電話では元気な声で「今から行くね」と言っていたのに、このあいだは家に遊びに行って一緒にテレビを見たのに、だけどそのお姉さんの体は道路に転がったまま動かなかった。私は庭でどうすることも出来ず突っ立っていて、道路からは事故に気づいて飛び出してきた近所の人たちの緊張した声が聞こえてきていた。

幼かった私が自分を責めるのは仕方のないことだと思う。
お姉さんがうちに来ようとしなければ怪我などしなくてよかったのだから。
数ヶ月の間、お姉さんは入院していた。私はどうしてもお見舞いに行きづらかった。「ごめんね」と謝りたかったけど顔を見て話すことが出来ないと思った。お姉さんはすごく私を怒ってるんじゃないかとも思った。
母に連れられて行った病室で私は我慢できなくて、泣いてしまった。
「あいのせいじゃないよ」とお姉さんは笑って言った。


電車も飛行機も車もバイクも自転車も、人間が作り上げたものだけど、その操作を誤ればいとも簡単に人の健康や命を奪ってしまう。その恐ろしさは時々薄れ、安全で便利なものだと錯覚してしまいがちになる。便利なものには危険があること。操作を誤らなくても不慮の事故は起こってしまうこと。紙一重であることは、善人な人間をも加害者にしてしまうということだと思う。

さっきまでタイヤが踏みしめていたアスファルトの上に、人間の体がぴくりとも動かず横たわっているという光景は、悲惨であり絶望であり衝撃的な事実なのです。
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