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| 2005年07月02日(土) THE WINDS OF GOD |
| 『THE WINDS OF GOD』という今井雅之脚本・演出のお芝居を見てきた。 有名なお芝居なので、一度は見てみたいなと思っていた。ちょうど、チケットが取れたのでひとりでぶらりと新宿まで行ってきたのだ。 毎年、夏になったら戦争を題材にしたドラマや映画やお芝居やら、たくさんやってるけど、戦争を体験した人、もしくは戦争で誰かを亡くした人なんかは、亡くなった人や体験した事を思い出し、弔うために毎年夏を感慨深く思うのかもしれない。だけど、私のようなまったく戦争を体験していない人間(今でも戦争はあるのだけど、それはまるで対岸の火事のようにしか思えない人間)にとっては、「毎年夏になれば、思い出したように取り上げられる戦争」というイメージしかないのではないだろうか。 少なくとも、私にはそんなイメージがする。 戦争を知らないから、わからない。 遠い昔のことで私には無関係のこと。 と言うつもりはないけれど、だけどそれと同じ意味を持つ気持ちなのかもしれない。 お芝居は、映画やテレビと違って目の前で生のお芝居が始まるので、とても楽しい。音楽のライブと違ってある程度のキャパシティしか観客を持てないし、テレビとは違って見ている観客の反応がすぐに返ってくるからこそ、毎日行われているお芝居も、毎回違うものになってくるのだろうと想像する。それもまた楽しい点だと思う。 お芝居の中では、死にたくないと思いながら誰かのために戦って死にに行く若者を描いていていた。そういう死には、誰もがどうしようもなく悲しくなるよね。観客席のいろんなところで鼻水をすする音が聞こえてきたけれど、私はなんだかいろんなことが怖くなってずっと違和感を感じていた、というか気味の悪さを感じていた。 国のために死ぬ、という昔の人たちの精神状態に気味悪さを感じていたのかもしれないし、それに同情してか感情移入してか、その姿に涙する現代人の観客に違和感を感じていたのかもしれない。 お芝居の中で、死を描いて観客を泣かせるのはずるいと思う。だけど、事実、戦争でたくさんの人が死んだし、死には誰もが涙する。若いのに戦争で死んで可哀想ね悔しいね、と戦争を知らない人間が涙するのは、けれどやはり到底軽いもののような気がするのだ。 戦争に対して、私たちはどう思えばいいんだろう、と私は思った。 よく、戦争を知らない世代は、戦争があったことを忘れてはいけない、戦争があったことを未来に伝え続けなければいけないと言われるけれど、戦争という「事実」を伝えることは出来るのかもしれない。だけど、その悲しさとか怖さとか、そういうものを伝え続けるのはとても難しいように思える。 自分の息子を兵隊にとられた悲しさとか、息子がゼロ戦に乗って突撃して死んでいった悔しさとか、自分の母親が空襲で亡くなった辛さとか、そういうことを伝えるには私にはリアリティに欠ける気がする。 もちろん、リアリティさを感じるために、実際に戦争を体験するのはイヤだ。 戦争でなくても、テロにあうのだってイヤだ。 死ぬのが怖いというよりも、誰かに殺されることが怖くてイヤだ。 日頃の生活の中で、何に気をつけて戦争を避けられる世の中にすればいいのだろう。 私たちの今の生活で何に気を使えば戦争をなくせるの。 私が戦争は嫌だと主張したら、世界には戦争がなくなるのだろうか。 明日の都議会議員の選挙に行って、誰かに投票すれば戦争はなくなるのだろうか。 戦争がなくなりますようにと願うだけでは、私にはただただ歯痒さが残るだけだ。 とは言うものの、お芝居の最後には私だってどうしようもなく涙が出てしまった。 自分の涙は軽いんだと思いながらも、どうしようもなく泣きたくなってしまった。 戦争というものを省いても、主人公が身近な人物を亡くした寂しさというものには、やはり涙が出てしまったのだ。 私は、輪廻転生というものを信じる。 戦争で死んでいった人を輪廻転生で誤魔化すわけではないけれど、もし、60年以上も前に戦争で死んでいった人たちの魂が、今の時代に生を受けるのだとしたら、これからの世の中はどう変わっていくのだろうか。 お芝居の最後のカーテンコールで、私の目の前に立っていた役者たちは、うっすらと涙を浮かべていた。その涙は演技の延長上に流れてしまった涙のようにも思えたし、緊張状態から放たれた放心した涙のようにも思えた。観客の何人かがスタンディングオベーションをして、みんなが涙を流していた。 私はひとりの役者をじっと見ていた。その人だけは拳を強く握っていた。唇を強くひいて足にそろえた腕の先で、拳をかたくかたく握っていた。 私は強く握られたその手がとても印象的で、家に帰ってもその拳ばかり思い出していた。 |
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