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2005年03月23日(水)  美化されてこそ
春になりかけのこの頃。
暖かかった日の夜は、生ぬるい風がひゅいっと首を撫でて、
まだその暖かさに慣れない体が、ふわふわと空を飛んでいるような気になる。
地に足が着いていないような、気持ちをどこかに置いてきてしまったような、
どこか心が軽く、どこかそわそわしながら、
もうすぐ春だと感じたその夜、高く空を見上げながら、
ひとつあることを思い出した。


ヒロキにはお父さんがいない。ずっとずっと昔に出て行ったそうだ。
うちのお父さんには隠し子がいたんだよ、と私が言ったら、
家族が増えていいじゃない、とヒロキは笑った。
ああそうか、と私もつられて笑った。

仕事中、ヒロキの昼休みの時間に合わせて新宿駅で待ち合わせをした。
駅ビルの最上階から見渡す東京の景色は、煙っていて美しくない。
食事をして下りエスカレーターで、また駅に戻る。
私の前に立っていたヒロキは振り返る。
ちょうど振り返ったら私と同じ目線になって、そしてニッコリと笑った。

うちのソファーでしくしくとヒロキは泣く。
男の人の涙は女の人の涙より、ずっとずっと強力な武器だ。
泣かないで泣かないでと私はヒロキの頭を撫でる。
私が支えていたヒロキの体は、耐え難いほど重かった。


その駅におりたって、私はどちらに向かって歩けばいいのかわからない。
目に入った喫茶店に入り、私はアイスティーを飲む。
窓から大きな桜の樹が見えている。風が吹くたび花びらを散らせているけれど、その花びらはいつまでも枯れることがないように思える。
清潔なテーブルクロスの模様を指でなぞって、ヒロキからの電話を待った。
この街のどこかにヒロキは暮らしている。
だけど、私はヒロキの家を知らない。
ヒロキの彼女の顔も知らなくて、私の前で見せる以外の彼を私は知らない。
窓の外の桜は花びらを散らせて、テーブルクロスには暖かい春の光が降り注いでいるけれど、いつまでたってもヒロキから電話はかかってこない。


春になるたびちらちらと思い出すその記憶は、けれどいつしかきっと色あせていく。
それに比例して、まだ少し残ったその記憶はどんどん美化されていくのだろう。
春を迎えれば迎えるほど、記憶の欠片が残れば残るほど。

記憶は美化されてこそ心に残り、自分自身を慰めるのだ。
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