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| 2004年11月15日(月) 振り返るということ |
| 私と恋人は、付き合い始めた頃、週の半分を一緒に過ごし、週の半分はそれぞれに過ごした。一緒に過ごすそのほとんどが私の部屋だった。 私に「おかえり」と言って、ご飯を温めてくれて、ぐだぐだとテレビを見ている私のお尻を叩いてシャワーを浴びさせ、濡れた私の髪の毛に指を絡ませながら乾かして、眠りにつこうとする私の顔を見ながら、自分も眠りにつく。 休日は、昼近くまで眠って、起きたらシャワーを浴びて慌しくセックスをしたら、商店街に買い物に出かけ、帰りに公園に寄って買ったばかりのお菓子を食べ、夕暮れ前に私がご飯を作るのをそわそわとして待ち、深夜遅くまでスポーツニュースを見て、私の髪の毛を乾かしてまた眠る。 そうして、日曜日の夜遅くならないうちに彼は自分の部屋へと帰っていく。 彼はそうして私と過ごしていた。 今の彼は、週末だけ私の部屋に訪れる。 私たちの携帯の着信はすれ違ってばかりで、携帯電話から聞こえる彼の声は電波に阻まれ途切れ途切れの言葉しか聞こえない。それでも待ちに待った週末に、恋人はふらりと私の部屋を訪れる。 私たちは、付き合いはじめのころとは少しずつ形を変えつつあるけれど、変わった形の中でも彼はそのリズムを崩さずに控えめなメトロノームのように自分のリズムとルールを守る。 その週末に、彼は自分のスーツを抱えてうちにやってきた。 月曜日はスーツで出勤することになったと言って、彼はクリーニングのビニールが掛かったままの黒のスーツを持ってきた。あまり気に入ったネクタイを持っていないと言うので、翌日、私は彼の手を引いて買い物へ出かけた。グラデーションに並んでいるネクタイを左から右へすべてを手にとって、彼の胸にかざした。 すべてのネクタイを彼にかざした後、私はひとつだけ、ネクタイを選び取りお金を支払った。部屋に戻った彼は、何度も何度も、そのネクタイを眺めてはその模様に触れていた。 日曜の夜になっても、彼は自分の家には戻らず、それを私は咎めることも指摘することもなく、それは彼自身が自分の手でスーツを持ってやってきたときにあらかじめわかっていたことで、彼は彼のメトロノームを、彼自身の手でそのリズムを変えたのだった。 朝になって、私はその日、早めに出勤しなければならなかった。 一緒に起きた恋人に、出かけるときに起こしてあげるから眠っててもいいよと言ったけれど、彼はまだ開ききっていない目を細めて、首を横に振った。私は手早く支度をおえて、彼を振り返った。まだ眠そうな彼の顔がすぐそばにあって、その目はぼんやりと宙を眺めていた。 もう行くね、と言うと、彼はゆっくりと立ち上がり裸の体にYシャツを羽織ってゆっくりとボタンを閉めると、ネクタイを締めてと彼は言った。私は昨日買ったネクタイを手に取ったけれど、私が出来るのはただそれだけだった。私は、残念なことに男の人のネクタイを結んだことはないし、結び方を知らない。 私が幼いとき、母は忙しい人だった。 休日の日でも母が仕事の日は、私は母の実家に預けられた。私は祖母に手をとられて、慌しく出かける母のうしろ姿に「お母さん、行かないで」と声をかけた。いくら呼んでも母は振り返らなかった。 お母さん、行かないでと、私は懸命に叫んだけれど、一度も母は振り返らなかった。 だから、お母さん、早く帰ってきてねと叫んだ。それでも、母は振り返らなかった。 恋人は、シャツを着た体を少しも動かさずにそこに立っていた。 彼がスーツを持ってやって来たのは、私にネクタイを選んでもらいたかったからで、私にネクタイを結んでもらいたかったからで、それはよくわかっていたのだけれど、私はそれをしてあげられない。 私は、玄関先で彼を振り返った。あの日の母を思い出した。 ごめんねと恋人に言ったら、いってらっしゃいと恋人はそこに立ったまま言った。 捨てられた子供のように、そこにぼんやりと立っていた。 |
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