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| 2004年10月09日(土) 記憶の連想 |
| 私には記憶にまつわる癖がある。 それをどんな風に説明していいかわからないし、ちょっと自分でも不気味に思うので、それを人に話したことはないと思う。でも、もしかしたら誰にも同じような癖があって、それは世間一般的に言えば、どこにでもありふれた人間の癖のひとつなのかもしれない。 その記憶は、私が子供のころに見た映像が多い。 空き地で見た夕陽/細い路地で友だちを振り返ったとき/三輪車をこぐ自分の足/台所に立つ母の後姿/洗車されている車に滴り落ちる雫/犬が首をかしげてこちらを見る様 その映像は、断片的で静止画である。あるワンシーンを一枚の写真のように切り取った映像だ。他には、自分が今住んでいる部屋のバスルーム/オフィスの喫煙ルーム/大学の構内/大学の側にあった公園の木漏れ日。大人になってから見た記憶、その映像もたまに出てくる。そして、今現在、私が日常生活で目にしている自分の部屋やオフィスや通勤電車の中の映像もある。 その映像が、誰かと話しているときふと思い浮かんでくる。 ある日、同僚と飲みに行った。同僚の話しに耳を傾けながら、私の頭の中にはある映像が浮かんでくる。たとえばそれは、“三輪車をこぐ自分の足” その映像とこの同僚やいま同僚が話している話は、まったく関係がない。幼い頃からこの同僚を知っているわけではないし、その同僚と一緒に三輪車をこぐはずもない。 映像が浮かんでくるというよりは、その映像がその場にしっくりと馴染んでいるのだ。私の頭の中で。記憶がまったく関係のない「今」という時間に馴染んでいるのだ。そんなとき、私は相手の話に耳を傾けながらも、その映像に気をとられてしまう。 ああ、あのとき三輪車をこいでたんだなあ、ああ、あのころよく母親が後ろをついてきながら三輪車をこいでたなあ、ああ、あのころはよく三輪車で転んだなあ、って。「今」の時間とはまったく関係のないことに、私は頭の半分を使っているのだ。 突如として現れる記憶の映像は、なぜ、いま、このとき、浮かんでくるのだろう。 不思議なことに、たまに頭に飛び込んでくる映像は、とても私の視点からは見ることの出来ない映像であることもある。それは幽体離脱を起こしたときに見る映像のように、私の身長からはとても見ることの出来ない高い位置から見回した映像だったり、私を私自身が見ている映像であることもあるのだ。道を歩く私を見下ろす映像。天井の隅っこからグランドピアノを見下ろした映像。私の後姿を見ている映像。他には、他人のデスクに座ったことなど無いのに、そのデスクから座ったときに見回した映像だって浮かんでくる。 それはきっと、私が想像して作り上げた映像なのだろうけれど、私は如何にもその映像をリアルに体験しているような錯覚をおぼえる。 「今」にまったく関係のないその映像は、なぜかしら「今」にとてもしっくりと馴染んでいるのだ。 「映像」と「今」には相互関係はない。思い当たる限りのことは考えてみたけれど、まったくそこに関係性などないのだ。 ただ、もっと不思議なことに、“Aさんという人と食事をしている”という「今」に、“自分が今住んでいる部屋のバスルーム”という「映像」が浮かんだとしたら、その後何度もAさんと会うたび、私は“自分が今住んでいる部屋のバスルーム”という映像を思い浮かべることが出来る。 Aさん=自分が今住んでいる部屋のバスルーム これが固定化されてしまう。Aさんとどこで会おうと電話で話そうとメールを書こうと、Aさんイコール“自分が今住んでいる部屋のバスルーム”なのだ。けれど、またまた不思議なことにその固定化された映像は、ある日ふと払拭される。そして、Aさんに会っても『無・映像』になってしまう。 Aさんという人でなく、場所でもいい。Bというお店に行った。“洗車されている車に滴り落ちる雫”という映像が思い浮かんだ。“洗車されている車に滴り落ちる雫”を思い浮かべると、Bという店を思い出す。どちらからも、思い返すことは出来る。 “大学の側にあった公園の木漏れ日”という映像にCさんという人とDという場所、ふたつを連想させることも出来る。 無意識に記憶を連想させているのだろう。 無意識のうちに共通点を見出しているのかもしれない。 他の人みんな、こういう連想をしているのだろうか。 それは私だけの癖なのだろうか。 先日、ベッドに入って恋人の子供のころの話を聞いた。 『小学校の頃、近所にとても親しい友人がいて、その子とは毎日一緒に登下校していたのだけれど、突然その子は僕と一緒に帰るのが嫌だと言って大喧嘩になった。1年間くらい口をきかずにいたけれど、ある日その子が話してくれた、一緒に帰らなかった本当の理由は、あの頃、彼はイジメにあっていて僕に悟られたくなかったらしい。どうして、あのとき僕はあんな風に喧嘩をしちゃったのかなぁ』という話しを聞いたとき、私はある映像を思い浮かべた。 私は、小学校にあがる前の年の一年間、幼稚園に通っていた。制服がみんなお揃いで、紺のスモッグに同じ色の帽子をかぶっていた。私はその制服がお気に入りで、幼稚園の入園式の前にはよくその服と帽子をかぶって祖父や祖母に見せまわっていた。大人たちが手を叩いて「よく似合っているね」と褒めてくれるのがたまらなく嬉しかった。幼稚園は高台を切り取った見晴らしの良い住宅地にあって、通園バスに乗って毎日通園していた。 夕方、幼稚園が終わり庭に通園バスが2台止まっていた。友だちがみんな玄関で靴をはいていた。私はとてもマイペースな子供だったようで、みんなが靴をはいてバスに乗る準備をしているときでも、後ろでぼんやりとその様子を見ていた。紺色の帽子がゆらゆらと揺れて、靴のつま先をみんなが地面にトントンと叩きつけていた。私は、それを見てなんだか急に悲しくなって大粒の涙を流して大声で泣いた。玄関中に響く大声で、みんなが帰ってしまうのが悲しくて、大好きな帽子がゆらゆら揺れているのも悲しくて、なんだか急に突然悲しくなって大声で泣いたことがある。その映像を、私は彼の話しを聞いてふと思い浮かべた。 その映像は、私が大声でしゃくりあげて泣いている様子を後ろから見た映像だった。 その映像は、もうずっとずっと前に起こった出来事で、どうしてそれほどのことで泣いてしまったのか今になってもよくわからず、それに恋人のこの話とはなんの脈略もないのに、25歳になった今の私をその映像はあのときと変わらず、悲しくさせたのだった。 その恋人の友だちは、とても悲しかったのかなぁと思うと、もっと悲しくなった。悲しさが連想させてそんな映像を見せたのかとふと思ったのだけれど、私があのとき感じた感情とその友だちが感じていた感情は、“感情”の種類が違っているような気がして、あまり共通項は見出せない。 知らず、涙が流れてきて、泣くところじゃないのにと恋人は笑っていた。 自分勝手に感情を盛り上げて出てしまった涙だった。 この記憶の連想は、どうして起こるのだろう。 この連想は、私の中でしか起こり得なくて私の中でしか理解できないものなら、突然連想した映像に、涙したり笑ったり懐かしんだりする私は、他人から見たらとても奇異に映るのではないだろうか。 あまり喜ばしい癖ではない。あまり他人に話せる現象ではない。 みんなは、そんな記憶の連想をしているのだろうか。 無意識に繋ぐ映像に、何か意味があるのだろうか。 |
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