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2004年09月10日(金)  空白の選択
恋人は、一週間の半分を私の部屋で過ごす。
けれど、私はあまり恋人の部屋を訪れない。
私は自分の部屋でないと眠れないことが多いし、自分の部屋のほうが落ち着くと思うからだ。
恋人が、いつ私の部屋を訪れようと、いつ自分の部屋に帰ろうと、それは彼の自由であり、飽きるまでそれを続ければいいと思う。ひとりの時間も恋しくなるけれど、それは週のもう半分の時間で足りるくらいの恋しさなので、私たちはまだお互いに相手への好奇心を忘れていない証拠なのかもしれない。

でも、どうしてもひとりでいたい日もある。
誰とも一緒に過ごさず、誰とも口をききたくない、誰の存在をもリアルに感じたくない、じっとひとりで過ごしたいこともある。何かを考えるために、何かに浸るために。
明日はひとりで過ごしたいと言うには勇気が必要だったけれど、私は迂遠な口実でひとりの時間を手に入れた。

夜、窓からサンシャインビルを見上げて何度も眠ろうと努力する。
手首に手をあてて脈をはかってみたりする。
指を広げてこめかみを押さえてみたりする。
枕の位置を変えて何度も寝返りを打ってみたりする。
眠れない夜を越えて、朝を迎えた。
空はどんよりと、でも確かに広がっていく。

ひとりになって何を思おう。
何を思い出そうか、何に浸ろうか。
伸びをして窓を開けると空がぐるぐる渦巻いて風を起こした。

私たちは、自分でも知らないうちに、岐路に立たされる。
それはたいてい、二股に別れた道で、右を選ぼうか左を選ぼうか、
それはひどく迷う選択だけれど、私は迷って迷って迷った挙句、結局、投げやりに
若しくは、衝動的に身を任せてどちらかの道をすすむことになる。
もうすべてがどうでもよいと思った結果、選んだ道だ。
それは、“選んだ”とは到底言い難い選択ではあるけれど。

右を選ぼうが、左を選ぼうが、それはどちらが正しくてどちらが誤りか、
それは誰にもわからない。
左へ行く私、右へ行く私、それは行ってみないことには正しさも間違いもわからない。
右へ行くことと左へ行くこと、どちらがどれだけ幸せで不幸なのか
誰にも比較は出来ない。
だから私たちは、その道の選択の正しさや誤りを知らずにいられることを、
幸せに思わなければならない。
岐路に立つことは苦しいけれど、それでも私は行った道を正しかったと思いたい。
不意に与えられた幸福に報いるため、私はだから後悔などしてはいけない。
選んだことに後悔をしたくない。


私は選んだ。
多少、衝動気味でも、多少、投げやりでも、
それでも結局はそんな気分で選んだ道は、
私の潜在的な本能を映しているからだ。
本能とか、本質とか、最近はもうそんな言葉さえ辟易してくるほど
私は、悩み喘ぐことに疲れてしまった。
この疲れから解放されるために、私は選ぶ。


私は最近、悲しいと思うことがある。
それは、まったく逆の意味を持つ事柄すべてが、紙一重に存在しているということだ。
だからこそ私は自分の意志で選ぶ


...


選んだ道は、やがてあのとき選ばなかった道と交差していた。
どちらを選ぼうと、結局この辻にたどり着くことを、私は知っていた。
そして、また道は平坦で平凡だけれど真っ直ぐな一本道に繋がっている。
どちらを選ぼうと、私の生活には何の変化を与えることはなく、
また、道はいつもと変わらずそこにあるだけ。

けれど、確かに私はあのとき選んだ。
だから、この道を行く私は、あのとき選ばなかった道を進んだ私より、
遥かに多くのものを背負っている気がする。
それは重くもなく、軽くもない。
その荷物を背負うことを、私はあのとき選んだのだ。
それで良かったと思う。
選んで良かったと思える。
少しほっとしている。
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