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| 2004年07月03日(土) 英雄ポロネーズ |
| 腕時計は、深夜1時をとっくにまわっている。 終電車を降りてマンションまでたどり着くと、私は空を見上げた。 遠くでバイクのエンジン音が響いている。熱い空気が二の腕にまとわりつく。 人は、どういうときにふと古い記憶を呼び起こすのだろう。 悲しいことは、思い出したくないと思うほど、なんの前触れもなくふと蘇る。 嘘。 前触れはあった。前兆はあった。思い出すきっかけになる話が私の耳にも届いた。 『あの人が東京に戻ってくるらしいよ』友達が私の反応を窺うように呟いた。 あの人が東京に戻ってくる。一時の帰国をしてもうすぐこの東京に帰ってくる。音楽家である彼が、東京の仕事を引き受けて今年の夏はずっと東京で過ごすことになったそうだ。 彼とは、何年会っていないのだろう。 以前の恋人のうち、ふたりは海外に飛び立っていった。 そのうちの一人とはもう一切連絡もとれないでいた。 別れてしまうとき、私はもう一生この人とは会うこともないだろうと思っていた。 その気持ちを自分の中で認めたとき、もう私たちに未来はなく過去だけが残って、たまにそれを思い出しては自分で自分を悲しくさせた。 「未来がない」という言葉は何て悲しい響きなんだろう。 動揺しているのだろうか。 また、彼に会えるとさえ思っているのだろうか。 あのとき覚悟した、もう一生会わないだろうという思いは、簡単に破られてしまうのだろうか。また、未来を続けようと思っているのだろうか。 もし、会えたとしても、私には彼にどんな話しが出来るのか、どんな言葉をかけられるのか想像もつかない。そして、今の彼が私に会うことを望んでいるのかどうか、わからない。 もしかしたら、私のことなど忘れてしまっているのかもしれない。 私にとって、彼はどんな人だったろうか。 彼は、時間というフィルターにかけても、私の中を片ときも離れずたまに存在を思い出させては、私を悲しくさせる。 私は、これまで何人の男性を好きになっただろうか。きっと数えられない。これまでの恋人を、けれど私はその都度、出来るだけの情熱を注いでいたはずだ。時間は過ぎ、彼らと離れて過ごす時間が長くなれば、彼らの存在は薄れそのうちどんな顔だったかさえ忘れてしまう。熱い情熱を時間が冷ます。そんな時間というフィルターをかけても薄れずに存在する男性は、それほど多くはない。 あのときの彼は、私にとってはとても大きな人で父のような保護者でもあり仲のよい兄や親友のようでもあり、そして音楽大学に通う私にとって音楽の師でもあった。 当時の私の何もかもを、当時の彼はかんたんに変えてしまった。 彼のことを考えると、とっても悲しくなる。 どうして、彼と出会ってしまったんだろうと後悔さえする。 どうして、彼を知ってしまったんだろうと自分を呪いさえする。 どうして、好きになってしまったんだろうと嫌気がさす。 出会わなければよかった。近づかなければよかった。好きにならなければよかった。 けして、彼を憎んでもないし嫌ってもないのに、もう一緒に過ごさなくなった今でも私を悲しくさせる彼を、いや勝手に悲しくなっている自分が嫌な人間に思えた。 彼を通して、私の中に悲しい思い出や辛かった出来事が一斉に蘇る。 私は、彼と出会ったとき、とても酷い人間だった。とても醜い人間だった。 遠くでまた、バイクの走り去る音が聞こえた。 彼の弾くショパンが聞こえてくるような気がした。 目に見えない強い力が、私の意志を無視して、 私の体と心をどこかにやってしまうような気がする。 私は私を維持できないかもしれない。 そう思うと少し怖くなった。 |
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