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| 2004年06月17日(木) only one |
| 買い被りかと言われればそうだとも答えるし、人を小馬鹿にしているのかと聞かれてもそうかもしれないと思う。私がどういうつもりなのかは、今はどうでもいい。大事なのは、唯一無二の存在が私にもいるのかどうかということが、一番大切で気に掛かることなのだ。 人といろんな話しをしていると、皆がみな口を揃えて私に向って言うことがある。 「あなたは、何でも話しやすい人だ。あなたほど、私を理解してくれた人はいない」 「私はこれまで、こんな話しを誰にもしたことがなかったのに、不思議とあなたにだけは何でも聞いてもらいたくなる」 「あなたは、どうしてそれほど私の気持ちがわかるの? 今までそんな人はいなかった。あなたは私にとってとても貴重な存在です」 「君は素晴らしい」 「君は僕にとって最高の理解者だ」 「もう君以外の人に相談しようとは思えなくなる」 などと、異口同音。 私は、たとえば彼らにとっては最高の良き理解者であり、これまで人には話すこともなかった苦しさを、安心してぶちまけられる相手なのだ。君は僕だけの理解者。君がいれば僕は生きていける。彼らは、勝手に私を「自分の所有物」にしたがる。自分だけの「私」だと思っている。でもしかし、同時に別の誰かも「私」を同じように良き理解者であると思っている。 それでは、私はみんなの、それぞれの「良き理解者」であるというのだろうか。人の抱える苦しみなんて同じ形のものはひとつもないはずなのに、複数の人間に共通する理解者など本当にこの世に存在するのだろうか。 なぜ、人にそんな風に言われるのか。思われるのか。 私は彼らと同じ立場にたったこともなければ、同じ経験をしたこともない。だから、同じ苦しさとか痛みを共有できるわけもない。では、私がこれまで経験したことが少しでも彼らの苦しみを想像させる材料になっているのだろうか。そうでもないだろう。私はまだそんなに多くの経験をしていない。じゃあ、私はみんなの苦しみが何でもわかる神なのか。それも馬鹿らしい。 たぶん私は、彼らから求められていることを無意識に理解できるからだと思う。 自分の話す苦しい気持ちに、こう応えて欲しいという期待を、言葉にせずとも感じ取れるのかもしれない。「こう言って欲しいのだろうな」「こうされたいのだろうな」とか、ときには「叱って欲しいのだろうな」とか「反対して欲しい、否定して欲しいのだろうな」ということさえある。それを怖ろしいほど無意識にわかるのかもしれない。言わば、私は彼らの「Yesマン」なのである。彼らの欲するものを肯定して調達することが出来るのだ。 彼らはきっとがっかりするだろう。 私が、「あなたが、〜と言って欲しいだろうなと思えたから、私はあなたに〜と言ったまでよ」と言えば。がっかりして、裏切られてような気持ちになるのかもしれない。唯一無二の良き理解者の真実は、ただの安売りの「Yesマン」だと知ったら。 だから、私はずっと「良き理解者」の振りをする。理解してくれる人がいれば、勇気付けてくれる人がいれば、ときに人は自信を持てる場合もあるし。良い結果を生み出すこともあるわけだから。 大学生の頃、私にも「この人は私の唯一の理解者ではないだろうか」という男性に出会いそうになったことがある。彼は、私にこう言った。「僕は、誰からにだって『あなたは、私のことを唯一わかってくれる人だ』と言われてきた。けれど、そう言われた張本人のことは誰もわかってくれない。僕のことを解ってくれる人はこの世にひとりもいない」と。私は、それを聞いてとても悲しくなったし、私が「あなたは、私の唯一の理解者だ」とまだ伝えていなくて良かったと思えた。ほっとした。なぜなら、私が彼に「良き理解者」だと言えば、彼を傷つけてしまいそうに思えたから。なぜだか、彼はとても悲しそうだったし、少し疲れていて傷ついているようにも見えた。 私は、彼と同じ道を辿ろうとしているのだろうか。ふとそんな思いがする。 ということは、私の「理解者」は現れないということなのだろうか。 これまで、私に向って「あなたは唯一の理解者だ」と言った彼らは、私にとても好感を抱いてくれた。私も彼らに好感を持ち、たとえば私自身のことを理解してもらおうと、訴えようとしたとき、果たしてそれを受け止めて聞いてくれた人がいただろうか。 誰もいなかったし、私が理解してくれることを願えば願うほど離れていってしまう。 彼らは、充分に理解者を得たのに、人を理解することをしなかったのだろうか。 それとも、私の理解の求め方が誤っていたのか。期待が重すぎたのかもしれないし、理解してあげたのだから私のことも理解してくれて当然だという驕りがあったのかもしれない。 いろいろと思い当たる節はあるのだけれど、結局のところ彼らが私を理解する前に私は彼らから理解されることを諦めた。若しくは理解して欲しいと思う人を、私は失くした。 一番身近にいる恋人を、この人をもっと知りたい、もっと理解したいと私はいつも強く願っている。でも、不思議なもので近くにいればいるほど、そして相手への好意が強くなれば強くなるほど、見えなくなってしまうことが多い。雑誌を目に近づけすぎて文字が読めないのと似ている。周りから「良き理解者だ」と褒められるのに、近しい人とは、たまに分かり合えなくて衝突をしたりする。自分をわかってもらいたいと欲が出て失敗する。 私欲が出てしまうと、何も見えなくなってしまうのだろう。 好意が強くなればなるほど、恋人を独占したくなったり自分の思うように操作したくなるのかもしれない。それが、自分を理解してもらいたいと思えば、尚更なのかもしれない。ニュートラルではいられなくなるんだ、きっと。 すごく皮肉だ。皮肉すぎてなんだか悲しくなる。私欲は相手には身勝手でもあるけれど、いわば私にとってはとても純粋な欲求だといえる。それを求めた途端に、何もかもがうまくいかなくなるなんて。とても皮肉だ。世の中はどうしてうまく作られていないんだろう。 相手にとっての「身勝手」と自分にとっての「純粋な欲求」がイコールになることもとても皮肉だ。 私はそんな自分に向って嘲笑する。 いろんな人に「良き理解者」だと祭り上げられているのに、なにが「理解者」だと。私を理解してくれて私の気持ちに添ってくれる人などいないじゃないか、一番身近な人でさえ見えていないじゃないか。なにが「良き理解者」だと、自分を嘲る。誰かに褒められるたびに、心の中でそう思う。 でも、だいたい「理解」というのは一体どういう概念なのだろう。 なにを「理解」と言って、どうされれば「理解された」と言えるのだろう。 「理解=肯定」だとは言いがたい。理解して否定することもある。 私が、ひとつだけ「理解」についてわかっていることがあれば、「理解」は人の上に立つことでもなく人の下にあることでもない。同等であって初めて理解できるという思いがする。「共有する」に似ている。「同情する」のには少し違和感があって、「相手の身になって考える」だとちょっとうそ臭くなる。 「理解する」って一体、どういうことなのだろう。 |
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