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| 2004年05月23日(日) 静かな湖面に石を投げる |
| 音大生の頃、ある人に「君は、静かな湖に石を投げる人でありなさい」と言われたことがある。 今ごろの音楽大学や他の大学では知らないけれど、私の通っていた大学はとても先輩・後輩の関係に厳しく体育会系並みに後輩が先輩のためにいろんなことをしなければいけなかった。たとえば、先に椅子に座っていた後輩が、あとから来た先輩がその席に座りたいと言おうものなら、他にも席が空いていようともその椅子を譲らなければいけなかったし、乗ったエレベーターが満員で先輩が乗れずにいようものなら、そこにいたすべての後輩たちがエレベーターから降り、待っていた先輩ひとりがエレベーターに乗ることもあった。それぞれの楽器専攻にわかれた実技の授業がある日は、わざわざ駐車場で教授が出勤してくるのを待つのも後輩の役割だった。4年生は王様扱いで、先生は神様扱いだった。敬いの態度を常に心がけなければいけなかった。 学年で示される地位は絶対で、各専攻の教授は絶対だった。 私は、あまりそういう世界は得意ではないので、なるべく関わりのないように何かと理由をつけては逃れてきた。逃れられるものはすべてパスし続けてきた。多少の非難はあったかもしれないけれど、それを耳にしないようにしてきたし、音楽を学ぶのにはまったく関係のないことであると思っていた。 たとえば、オーケストラなどで弦楽器・管楽器・打楽器が集まって練習を行うとき、譜面わけというものを行う。フルートであればフルートの楽譜があり、トランペットであればトランペットの楽譜があるけれど、その楽器ごとの楽譜の中でも、更に1st・2nd・3rdというふうに音域ごとに楽譜が分かれている。そして、1stの楽譜は主に主旋律や高音域を担当し、3rdにいくほどハモリや低音域を担当することになる。だから、1stを演奏するプレイヤーは主席といってその楽器のリーダー的な存在にもなるわけだ。縦列社会に生きる私たちは誰の有無もなく主席を4年生が担当し、下へいくほど学年は下がり、1年生の頃などは主旋律を一度も吹かぬままでいることだってある。 そういう仕組みってどうにも可笑しいことではないかと思った。同じ楽器を専攻するものの中では、学生といえどもそれぞれの個性があって得意不得意がある。ソロパートを堂々と演奏できるタイプの者もいれば、耳がよく和音でハモるのが上手い者もいる。それを無視して学年ごとに割っていくことはあまりにも賢い方法だとは思えない。大事な演奏会で披露する曲であれば、その譜面わけは慎重に行わないといけないんじゃないだろうか。 そこで、私はなみなみと水を湛えていた湖に石をぽちゃりと投げた。波紋は広がり遠くにまで及んで物議をかもし衝突したけれど、私の言うことは何一つ間違っていはいないという自信があった。ただ、静かな場所でみんなが納得面して言えずにいたことをストレートに口にして、騒がしくさせただけのことだ。 そんなことがいい作用を生むこともあるし、悪い方向に転じてしまうこともある。石を投げてみないとわからないと言うと、とても無責任なようにも思えるけれど、「違う」ということを投げてみて何かが変わればいいと思う。みんなが目指しているところはひとつなのにその方法に異論があるのであれば、主張してみても罪にはならないのではないだろうか。そう思う。 大人になると異議を唱えることが億劫になってくる。1人対大勢のやり取りはとてもパワーを使うし気が滅入る。黙って倣っていたほうが面倒なことにならないときもある。常に正義が勝つわけではないときもある。笑って済まさなければいけないときもある。ただ、そういうことばかりではもっと疲れるし気が滅入るだろう。 静かな場所はとても平和で強い風も吹かないけれど、不穏な空気がわだかまって渦巻いていることもある。狎れて来た場所に、果たして質のよいものは生まれるかどうかということには疑問を持つ。だったら、私はきっとあの人が言ったように、たまに石を投げるかもしれない。私に石を投げさせた動機は、「ここにいるみんなが目指しているものは同じである」ということだけ。目指す着地点が全員の中で一致していれば波紋はとてもいい影響を与えるだろう。何かを模索する場であれば、何かを恐れて黙っていることほど気が滅入ることはない。そう思う。 いい音楽を作ろうと思った、あの頃の先輩も私も目指すものは一緒だったはずだ。 それは今、社会に出ても同じことだ。そう思いたい。 |
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