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2004年01月22日(木)  花束
花束をもらうということは、果たして一体どういう意味がそこにあるんだろう、と思うことがある。

私は、学生のときから花束をもらうことに慣れているような気がする。

たとえば、音大生だった頃、定期的に催される学内の演奏会があったが、その演奏会ごとに私は、数え切れぬ人々から花束を貰い続けていた。
本番がもうじき始まる。オーケストラは、管・弦・打楽器の学生を合わせると何人になるだろうか。30人ほどだろうか。全員が広い楽屋にひしめきあって、本番のときを待つ。何度も同じフレーズを練習するもの、楽譜を睨むもの、煙草を吸うもの、おしゃべりに興じるものなど、そのときを待つ形は、人それぞれだ。ただ全員に共通することは、底知れぬ緊張感やプレッシャーを感じているのに、それをひた隠しにした強がった姿だろうか。私は、そんな時間をある行為を行うことで、楽しむことにしていた。それは舞台の袖に小さく開いた穴から客席をのぞくこと。見知った顔もある。それは今回の演奏会には出ることはない、ピアノ科の生徒や声楽科の生徒、あとは付属の中学生や高校生、そして、各科それぞれの楽器の講師だ。私の先生もいる。きっと私がへまをしないかどうか、見に来ているのだろう。大変なへまをすると、後で大目玉を喰らうのは確実だ。先生を見つけると私はたまに胃が痛くなる。ここでも、それぞれに本番のときを待つ姿がある。私は、自分でも知らずに誰かを一生懸命に探している気がする。
やがて、演奏家の卵である生徒達が、暗く狭い舞台袖に集まり、声を潜め足音を立てないように、舞台に出て行く順番に並び始める。まもなく会場のアナウンスが流れ終わると私たちは身をかたくして、眩しいほどのライトに照らされている舞台に登場する。
そして、すべての演目が終わり楽屋に戻ると、そこには花という花が窮屈にテーブルに重ねられている風景を目にすることになる。
クラシックの演奏会には、ほとんどの人間が、花束を持って訪れる。特にそれが身内だけで行われるものであればあるほど、数は多くなるものではないだろうか。花束に添えられたカードには、送り主と宛名とその人が専攻している楽器名が書かれている。私も、自分に贈られた花束を探す。
今日は、いくつもらったか。その花束の数が多ければ多いほど、その数は学校内での、またはオーケストラ内でのステータスをあらわしているようにも感じる。それは皆の中での暗黙の了解のように映し出される力関係のようなものでもあった。花束の数が多いほど、演奏が上手く人気があり友達も多く慕う後輩も多い、そう思われるのである。私もひとつずつ自分の花束のカードを確認する。ピアノ科の友達、声楽科の友達、別の大学の友達もいれば、顔と名前が一致しない付属の高校生の名前もあった。副科で必ず取得しなければいけないピアノの先生の名前もある。私は、カードをすべて見終えると、また彼が現れなかったことに落胆した。
私が、演奏会を迎えるにあたって、一番緊張するときは、演奏をしている瞬間ではなく、このカードを確認するときかもしれないと思う。何度も来て欲しいとお願いし、チケットを渡すために不在かもしれない家にも、何度も足を運んでやっとの思いで渡したのに、やはり、彼は現れなかったのかもしれないと思うと、それはやはり落胆の思いがした。もちろん、彼の名前が入ったカードを見つけることもある。その瞬間は、喜びに満ちて私は演奏会用の服装のままでも、ホールの入り口まで走り出し、彼の姿を探しに行くこともあった。ピアノの講師をしている彼が大好きだったのである。

また、以前の職場では、3ヶ月に一度表彰式を兼ねたパーティーを行うことがあった。
営業成績を総評して、「新規獲得数最高トップ賞」「売上げトップ賞」「優秀営業賞」「最優秀営業賞」「新人賞」「グランプリ社賞」と、その賞の名前は今ではもう思い出すことも出来ないほど、多種様々であった。このホテルの大広間に集まった営業マンの数は、一体何人といるのだろうか。某大手会社の代理店が一同に集まり、各社ごとにテーブルに着き、食事をしながら表彰式を行い、各社の力加減の差をまざまざと見せ付ける集まりなのだ。私は、そこで毎回のように表彰を受ける立場にたつことになる。同僚が聞けば嫌味になるだろうが、一体何を頑張って賞を貰えるのか、自分でははっきりと思いつくことさえ出来なかったために、大勢の人の前に立たされるのが恥ずかしく思い、短いスピーチをお願いしますと進行係の人に耳打ちされながら、なんだか面倒くさいなと思うことは、毎度のことであった。私が会社を辞めるまでに貰った賞は、売上げトップ賞と新人賞と優秀・最優秀営業賞だった。盾をもらい取締役がそれぞれの営業マンのために労いの言葉を寄せた表彰状を受け取り、スピーチをお願いしますと言われる。上司や先輩やアシスタントの女性の名を挙げ、その人のおかげですと無難なことを言ってすぐ礼をした。すると、舞台のすぐ下から、会社の同僚や後輩が花束を持って駆け寄る、私は無難な笑顔を浮かべそれを受け取る。もう一度拍手が起こり、私は舞台後ろの自分の立ち位置にすぐさま戻る。
その花束を用意したいたのは、事前に知っていた。そのパーティーが行われる朝には、アシスタントの女性が「どこで花束買おうかしら」と独り言を言うのを知っていたし、営業から戻ってきた夕方には、その女性のデスクの上に花束が置かれているのを知っていた。3ヶ月に一度、こういう出来事が社内では起こっていた。いちどだけ、その年の四月に転職してきた人間、三名のうちのひとりが、(彼は私よりもふたつ年上だったが)舞台下に花束を持ってスタンバイしていた。スピーチをしていた私は、ふと彼に視線を向けると彼は不本意なような面倒くさそうな顔をしていたのを見つけてしまった。不自然な笑みをたたえて私に花束を渡すと、「おめでとう」と言った。彼と仲が悪かったわけでもない。同僚としてはそれなりにうまくいっていたと思う。しかし、私は彼より社歴は半年ほど長いが年齢は下で、彼は私よりも営業歴は長かった。そして、彼は人一倍の負けず嫌いだった。噂で、彼が私のいないところで「あれぐらいの成績だったら自分でも簡単に出来る」と言ったのを聞いた。そのとき、競争社会に生かされていることと、社会では結果が全てだということ、そしてこの表彰式は多少の嫉妬や精神的な争いが静かに渦巻いていることに気づいた気がした。

学生の頃からつい最近まで、幾度となく花束を貰っている。
さて、その花束を私は一体どうしただろう。
学生の頃は、そのあとの打ち上げをした店で、皆で分け合った。たまにその花束でプロレスラーみたいに叩き合う男の子もいたり、酔っ払って引きずってしまったために花びらをすべて落とした子もいる。初めの頃の私は、皆でわけても余った花束を家に持ち帰ってバケツにそのまま突っ込んで放っておいた。飾る花瓶も持っていなかった。そのうち、学年が一番上になると、後輩たちに押し付けて、ひとつも持って帰らなかったこともある。花束の数だけがすべてな世界では、それを確認した後には、何も必要がなかった。社会人のときにもらったときは、さすがに花瓶を買って飾っておいたが、そのうち無残に枯れてしまいそうになると少し嫌なにおいのする枯れ花に顔をしかめて、生ゴミとして捨てた。

恋人にもらったこともあるだろうか。ついでに買ってきたような言葉を添えてもらったことも数回はあったような気がする。そんな花は捨てるタイミングに少し神経をつかったりもしたものだった。

今日の22時。
私はある男性と向き合って座っていた。遅い夕飯をとる約束をしたいたのだが、私にとっては行こうと行くまいとあまり重要なことのようには思えず、食べたいものや好みの店の雰囲気を細かく確認し始めた彼に、少しウンザリもしたり約束をしたことに後悔もしたりした。遅れて来た彼は、お礼のしるしといって小さなブーケの花束を持って現れた。おどけながら洒落のつもりで渡した花束の影に彼の恥ずかしげな顔を見つけたとき、なぜか私を少し苛立たせた。なぜか。
ブーケにはぎっしりという言葉が似合うほどピンクや黄色の花が圧縮されていた。花束を持って店まで駆ける彼には、いろんな思いがあっただろう。私が喜ぶ姿が彼の思いを救うだろう。だから、私は喜ばなければいけないという義務感を感じる。それは本当になにかの儀式のようなやり取りなのだけれど。
0時に近い時間に、私たちは店を出て、同じホームに立っていた。それぞれに乗る電車は反対方向である。彼が乗る電車が来て、見送られずにすんだ私はひどくほっとした。早く開放されたい気持ちが私をせっついている。電車が止まるのもドアが開くのも、いつもよりスローに思える。最後の力を振り絞って最高に笑って手を振って、彼を見送った。
やがて、私の乗る電車も到着し、それに乗ると少し眠った。その駅に止まると私はホームに降り、手に持っていた花束を捨てた。躊躇もしなかった。そうしようと、彼にもらったときから決めていた。


花束に込められた気持ちが、私にはわからない。
それは、なんだか計算高く見積もられた気持ちが混じっているようで、私は素直になれない気持ちがする。花束をもらって喜ぶ人は多くいるだろう。素直に嬉しいと思える人もいるだろう。けれど、やはり私は用心深くなってしまうのだろか、それを真っ直ぐに見ることが出来ず、斜に構えてしまうのかもしれない。花が枯れるようにいつかはその気持ちも枯れてしまうのである。
ピアノの彼も、共に働いた同僚も、あの男性も、いつかは気持ちや志がすれ違って別れていくのだ。ずっと活き活きと輝き続けて咲き続ける気持ちは、どこにもないような気がする。一時的な感情で美しく咲くだけの花なら、最初から信用しないほうが傷つかずに済むような気がする。信じなければ傷つかないという言葉が、切に感じられた。
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