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| 2004年01月15日(木) 大切だった今日という日 |
| とうとう、この日がやってきた。 人にはそれぞれに歩む道があって、たまにその道は右か左か別れ道になっていたりして、右を選ぶとしたら、左をえらんだ人生を一度としてどんなものだったか知ることはないけれど、人はそれでも人生の中でいくつかの決断をして自分の人生を決めていく。右を選んだら、人は潔く右の世界で生きていくのが当然で、いつまでも左の道のことを考え続けるのはナンセンスだと思う。 けれど、私はいつまでもどこかの別れ道で失敗してしまったことを、逡巡として思い返そうとしている。何がどうなってこういう状況が生まれたのかって。 もし、もしもの話し。 どこかで私が、違う決断をしていたら、今日という日は実に晴れ晴れしく喜びに溢れた日になっただろうと思う。悶々と土の下でこの日を待ち、すべてを我慢してこの日に焦がれて、毎晩毎晩あと何日かを数えていただろう。そして、今日を迎えたあの人生の私は、あなたを抱きしめて喜びを分かち合っただろう。よく頑張ったねと私はあなたに言い、あなたは私の髪の毛を撫でただろう。たとえ、それまでの日が、苦痛のものだったとしても、その瞬間にすべてが報われたことだろう。私は、私の決断を誤っていなかったと確信しただろう。そして、私の気持ちは更に強くあなたに傾いただろう。すべてを発散するようにそれを言葉にしてあなたに打ち明けただろう。 けれど、もしもの話なんて、ナンセンスだ。 私がいま立っている場所は、その喜びや開放の気持ちを一ミリも感じることなく、ただ正確に時計の針が動くように、当然としてこの日を迎えて当然としてこの日は終わっていく。いまの私に今日という日の重みは、またその意味は失われてしまった。 だから、とうとう今日という日がやってきても、そして大切な今日という日が遠ざかっていっても、私には、昨日や一昨日とまったく変わらない一日だと思える。あなたにとっては、とても大切な日であったとしても、私にとってはただの一日と何も変わることはないのです。私にあなたと共感する権利を奪ったのは、私の決断の間違いだったと、今になってはそう思います。 だって、自分のせいにして悔やんでいたほうが、どれだけ救われるかあなたに理解できますか。 |
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