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2004年01月07日(水)  夕方のカクテル
恥ずかしいことに、大人らしからぬことに、また人前で泣いてしまった。
どうして、こんなに泣いてしまうんだろう。もう、本当に自分にウンザリしてしまう。涙を流しているときは悲しくて悲しくて、なのに涙が止まったときは、言いようのない後悔が空虚感を感じて、興ざめしてしまう。
たとえばそれは、好きでもない男とセックスをしたあとみたいな。

昨日、取引先の人にメールをしておいた。
「新年のご挨拶に参りたいと存じます。明日、お時間をいただけませんでしょうか」
返信は、「夕方においで。予定がなければ食事にでも行きましょう」

彼は、年齢不相応の役職についている。若くして大きな業績を次々にあげていったという噂を聞いたことがある。頭のキレる人かと思い、初めてあったときは少し身構えていたのに、ざっくばらんというか、適当というか、契約を迫る核心の言葉を伝えると、「あなたにお任せします」と返ってくる。この仕事は君に任せるよ、キミの力量を拝見しましょうか、とでもいいたそうに。任されてしまうと私の自由に仕事が出来る反面、失敗してしまうとすべての責任が私にのしかかってしまい、結果、損失させてしまうのはクライアントである相手方だ。無理な我侭をいうクライアントのほうが手がかかるにせよ、それよりも難しいクライアントは、お任せタイプなクライアントだと思う。仕事の話をしに行くときは、30%が仕事のはなし、70%がプライベートなおしゃべりだ。話し口調は、私を子供のように、若しくは妹のように扱う。奇しくもわたしの異母兄と同じ年齢だ。

彼、直々に会議室へ通してもらい、「正月は実家に帰ってた?」というはなしから、彼が海外へ行った話、海外なのに日本人ばかりいた話、温泉があったので喜んで入ったら落ち葉だらけの湯だった話。そんな話題ばかりで時間は過ぎていった。
そして、急に真面目な顔になったかと思うと、来期から経費削減のために御社への発注機会が減るかもしれないという。“お前の会社”というときと、“御社”というとき、その声もその表情も、まったく違うものに思えてしまうのは、彼がこの外注先の営業マンとの会話の主導権を握っているということになるだろうか。とくとくと仕事の話が続く。何とかうちの会社が食い下がれるような情報を聞きたい。どうしたら選定外注会社に入れるのか。うちには何が足りなくて、何が他社より優っているのか。ふたりの会話は徐々にお互いの腹を探りながらの情報取引のようになっていく。はなしを続けるうちに彼はふぅーっと溜息をついて、前かがみにしていた体をソファーの背もたれに押し付けた。そのサインはこの取引は無駄だったと思ったのか、私に失望したということだろうか。
彼の表情は少し厳しいものになってくる。
少し呆れたような、苦いような笑みを浮かべて、彼は言う。
「君はいつでも、かたいな。」

彼は、優しい声で、少し表情を和らげて、子供に善悪の判断を教えるように、生きるための術を教える父親のように、そして私の目をみつめて話しはじめる。私の声は段々と小さくなり、目線はテーブルの上に落ちていく。
怒られているとは思わない。失望されたのかもしれないが、彼の言うことは間違ってはいないと思う。この人はただ、何かをわたしに教えようとしている。私自身に足りないもの、それは仕事の域を超えるとても大切なこと。それはまさしく生きるための術だといってもいいのかもしれない。人の立場になって考えること、簡単に捨て身にならずに自分を守ること、他人を信頼するということは一体どういうことかということ。何度も彼は「仕事以外でも同じことだ」と繰り返し「キミにこんなことを言えた立場ではないが」と言う。


午後四時半には、ビルを出てこの時間でもお酒が出る店を探した。
店の中は、外の明るさとは対照的に薄暗いライトに照らされている。
テーブルがあいているのにカウンターの席を彼は選んで、知り合いらしいバーテンとはなしをして、私のためにシェイカーを振ってもらった。

雰囲気で、この付き合いは仕事の延長上ではないと感じる。と言っても何かしらの遠まわしな思いや考えがあったわけでもないだろう、この人とたまにこうやって食事に行っても飲みに行っても、仕事の話はお互いの愚痴だけの範疇で終わってしまう、ふたりの間に横たわる契約の話に近い話題になれば、それは自然と逸れていく。

この人は、信用できる男なのだろうか。

お互いほろよく酔い、3軒のはしごをして腕時計を見る。まだ午後九時。
しかし、延長上の付き合いではないとはいえ、仕事上のお客であるには違いない。これほど、私をつき合わせてあれこれと話をするこの男は、一体私をどう思っているんだろう。
使えない営業マンと思ったか。
まだまだ期待できる営業マンと思ったか。
それとも、女と見ているか。
誘った礼儀で付き合ったのか。
彼の言葉の端々には、その理由を読み取る要素はまったくない。

酔っているとはいえ、ふらつくほどではない。丁度いい気分になるくらいのほろ酔い程度だ。彼は本当にお酒が強く、彼のペースに合わせることは出来ない。彼はよくしゃべりよく食べた。私は少し伝票の金額が気になり始めた。

ふと、彼が話の矛先を変え、私の仕事について突っ込んでくるようになった。仕事はどうだ?面白いか?生き甲斐に思っているか?今の場所に満足しているか?将来おまえは何をしたいのだ?
そして、急に私の目を覗き込み、「最近、疲れてないか?」と、そう言った。少し彼の言葉があたまに入ってくるのがゆっくりになってくる。噛み砕いてその言葉の意味や、その言葉を言ったタイミングを理解しようとするには、少し時間がかかった。ああ、そうだ。疲れている。正月明けの仕事はスローペースで始まろうとしていたのに、昨日と今日、私は一体何をしていた?そうだ、トラブル対応だ。人々の偏った欲望と濁った目が、頭の中をちらつき始めた。


昨年の12月頃から、自分のせいではないのにトラブルがおき続けている。いろんなところで、事態が混乱している。冬の休暇中も涙まじりの派遣スタッフの声が、携帯から聞こえてくる。それは、年が明けても続いている。
派遣契約は人を扱うものなので、たとえ私がへまをしてなくても、私が思うとおりに仕事をしたとしても、うまく事が成立しないときもある。そこには、私以外の派遣社員や派遣先社員の思惑や気持ちがある。説得し続けても必ずしも人の心をうまく扱うことは難しい。私は彼らの口から吐き出される自分勝手な言い分や主張をすべて吸収してしまう。人の濁った思いを吸収してしまうと、がくんと体が重くなってくる。力を振り絞ろうとしても立ち上がることさえ出来なくなってくる。そうなってしまうと、事態はどんどん泥沼にはまっていく。
この彼の会社との契約で、いまトラブルが起きているわけではないけれど、私の気の迷いと自信のなさと、いくら走り回っても何も状況が変わっていないことを見事に言い当てた。私はずっと疲れていた。

そうだ、さっき我慢していたこと。それは涙だったと、いま思い出した。

声をあげずに気の済むまで泣いた。けれど涙が枯れることはないだろう。仕事相手の前で泣くのはぜったいに嫌だったのに。この一ヶ月間のあいだに、失恋をした、家族の揉め事もあった。その涙を人に見られることがあっても、ぜったい仕事の涙は人に見せたくなかった。それが、営業という職を私が選んだ、唯一のプライドだったのかもしれない。別れてしまった恋人への信頼、家族との信頼、仕事上の信頼。どれも私は放棄しようとしていた、そして放棄された。恋のプライドも子供としてのプライドも仕事のものでさえ、私はこの瞬間にすべて捨てた。
彼はハンカチを取り出した。

泣いてばかりの年明けは、呆れるほどお天気のいい日が続いている。

とにかく、私は涙を見せてしまったことが悔しくて、彼の顔を真正面で見ることが出来なかった。痛いところをついた彼を、益々仕事のできる男なのだろうかと、脅威にも思うし、興味も沸いてきた。

仕事は辛い。
けれど同じ分だけ楽しみもある。仕事自体には泣かない。けれど自分の不甲斐なさに涙が出てしまう。自分の思う仕事には、まだまだ足りない自分がいる。人間としてもまだまだ足りない自分だということだろうか。

先ほどまで、あれほど私に質問を浴びせかけていたのに、その後の彼は、それをきっかけに何も聞いてこなくなった。多分きっと私が涙を見せてしまったことで、気を使わせてしまったのだろう。男の人の前で泣くのはルール違反だよなと思う。泣いてしまったくせに。
涙が止まって、少し落ち着いて、私は聞いた。「彼女を泣かせたことあります?」
「まあね」と胸を張って苦笑いを浮かべて彼は答える。

そうして、彼のおしゃべりはまだまだ続く。
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