umityanの日記
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2017年08月31日(木) 八月の終わりに寄せて。

八月が終わろうとしている。例年にない猛暑の連続だった。僕は、がむしゃらに走ってきた。八月は一年のなかで、一番過酷な月だ。仕事と言えばそれまでだが、僕を待っているクライアントのことを思えば、身を粉にして遂行せねばならない。これは仕事であると同時に修行なのだ。

幸い、ネズミ男君が、「おいらも修行したい」と言って、毎年、ドライバーとして車の運転をしてくれる。ありがたいことだ。1人で悶々として、運転するよりは、2人で会話をしながら、目的地へ赴くほうが楽しい。時折、運転のマナーや、ドライバーテクニックの点で口論になる。「あんた、もっとゆっくりでいいんだべ。とばさない。とばさない」と、僕、ジャイアンが言うと、「わかっとりますたい」と、不機嫌そうな顔をする。いつものパターンだ。

僕らの修行も、10日ばかりで終了した。ネズミ男君へ、幾ばくかの、お駄賃をあげて、終了日の夜は、もよりの小料理屋で反省会を行った。くたびれた体に、アルコールの効き目はてきめんだ。2人とも酩酊すること常のごとし。カラオケで気勢をあげたが、点数は沈みっぱなし。

まだ体の回復が出来ていない。雑草達が、「あんたら、どうしたんだい。草刈り機械の音がしないので寂しいぜ。どんどん伸びまっせ」と、僕らをあざ笑っている。こしゃくな奴らだ。先日、ネズミ男君と言ったことよ。「もうすこし待ちんしゃい。九月になったら一網打尽にしてやるぜ。泣いたって知らないからなあーー]ってね。

最近、昼間は、たまっていた机上の仕事に取り組み、疲れたらソファーで一休みする日々が続いていた。夜は午後八時に就寝だ。そんな中、ある日、ネットで興味深い記事を発見した。

なんでも、ロバート・ランザ博士という人が、「我々は死後、新たな時間に突入する。死後の世界はあらゆる時空間を楽しむ場所だ」と言っていた。要するに空間からすべてを取り去ったら何が残るか?。ランザ博士の答えは「無」。と、同事に時間も存在しなくなると。時間や空間は客観的に存在する対象物ではなく、脳が作り出したツールであると。過去、現在、未来は、単なるしっこい幻想であると。

とはいえ、死とともに幻想を生み出していた意識も消え去ると思われるが、そのとき我々はどうなるのだろうか?。ランザ博士によると意識が消失することで、もはや、時空とも言えないような全く新しい時間が始まるというのだ。そこでは、時間が過去から未来へ流れるようなことはなく、あらゆる時空間を自由に行き来できるようになると言うのだ。

「量子論的には死は楽しそうな出来事のようだ。自由に時空を行き来するとはどんな経験なのだろうか?。今から楽しみである」と、結んであった。

うんんん、なかなか難しい問題だ。確かに死は、すべての終わりのように思えるが、宇宙は11次元まであると科学者が言っている。我々の意識が他の次元を自由に行き来できたら、それは楽しいに違いない。僕がこの世を旅立つときは、新たな時空間への出発と考えたい。そう考えると、死を怖がらなくても良いだろう。

八月の終わりに、変なことを書いてしまった。さあ、明日からは九月、長月だ。四ヶ月すると正月がやってくる。時間の流れが速いことよ。おっと、これは幻想、幻想だ。


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