2012年11月17日(土)
ふゆこみうかったよ!と客家のはなし(第一弾)(たぶん)



[ふゆこみ受かりました]

 という訳でこちらは本当に本当にお久しぶりです、前日になつこみ御礼とか(笑)を載せていますが、実際の時系列としてはこちらが正解ですお久しぶりです(二度目)

 で、前日のエントリ内でも書いている通り、ふゆこみ申し込みまして。でうかりました!
 12/29、冬コミ一日目です。今回はやっと今の夏希さんの本を出そうということで、去年BS12でやって(SS書くことに)はまってしまったくるまドラマ(30日に夏希さん分の再放送あるよ)web再録と書き下ろしで一冊。
 後はきむみみで何か出したいなぁと予定しています。

 進捗は8周年の時につくったついったアカウント@mutsumi_nsで随時報告していきます。今、いろいろ警戒して鍵かけちゃっているんですが、お気軽にフォロリクくださいませ。
 がんばるよー!




 こちらに来ていない間何をしていたかというと、まあもうついったみてね!なんですが、相変わらず夏希担と未だ衰えをしらないヅカヲタぶりでございました(笑)。あとこの夏はやたら旅行づいていて、前述の淡路から博多(フットルースと嫁家訪問)→仙台(全ツとmasaki嬢に912の報告)→富山(家族旅行)→宝塚(きむみみ見納め日帰り弾丸)と飛び回っておりまして、その締めとして(違)来週は西宮(近代建築と客家の西北公演)に行ってまいります。


 と、話がつながったところで!(どうだか?)
 これまた前段の「淡路」のスピンオフ公演からの、本公演。TSミュージカルファンデーション「客家〜千古光芒の民」が11/9から始まっております。
 初日に行きまして、夏希さんがかわいすぎたのと(いや私在団中からかわいいかわいい言っているけれど今回マジかわいかったから!)(はいはい)謝イズムにあふれた「いのちの物語」に大感動して帰ってきたんですが、翌日から、だんだん、あ、あれ?と(笑)
 そんなこんなで、初日から三日連続で見て諸々思ったことを覚え書きとして書いておきます。たぶんこの週末にみたら、また印象が変わるとは思うので、だからこその初見時感想を。
 ほぼついったで@homeで書き殴っていたものです。


 ※ネタバレしています。










[兄上の話]

 「客家の」なかで、地味に好きな場面が、盲目となった兄上が再会した丙様を抱いているところなのです。目は見えないけれど、その手でその腕でちいさな命を感じている。それは空の言う「まだこの腕に温もりが残っている」とゆう実感と同じものだろうなぁと思っています。
 淡路では獄中で死んで終わった兄上が、本編では生きながらえているのは、まあ蛇足といえば蛇足なんですが、実体はそうしないとあそこで爽の死に場所が作れないという演出的都合でもあるよねぇ(笑)。登場人物だしすぎなんだと思っています、全体的に。
 ただそこに意義を見いだすなら、「想いを継ぐのが男」、「命を継ぐのが女」、とゆう客家の理念の中で、兄上だけは「想いを継ぐ」から「命を継ぐ」、に変化していったように思うのです。それは爽、旻の「客家の戦士」としての死から空の生への繋ぎであるとも、空への同化ともとれてるかなあと。
 言ってしまえば無様ななりで生き延びた兄上。けれども想いより命への執着が生まれて、その腕に抱いた丙様の命の重さを感じて、そして空に「死ぬな」「生きろ」と言い残す。そこにひとつの流れを感じてうわわわわ、となったのです。
 だからああして天梓が生きながらえたのは意味があると思うのです。


[客家の教えの話]

 最後の戦いで旻の言う「俺たちは客家の戦士だ!」に壮絶な違和感を覚えています。
 えー?いつからー?戦わなかったからこその客家じゃないのー?この違和感は某嬢の言ってた「結局教えを誰も守ってないからもやっとした」と言われて、あ、そういえばと改めて気づいた点です。いやー、初見の時はふつうにスルーしてたので(笑)
 で、ここで思ったのは客家の教えは「平時の教え」なんだろうなぁと。爽の言う「なぜご先祖様は戦いの教えを残されなかったのだ」と言ってる通り。教えを守っていては有事は越えられない。だから彼らは教えに背く為の理由付けを探していたように思うのですよ。
 その理由が空は「命を懸けて守るものがあるから(武器を取る)」であり、旻と爽は「想いを刻むために(客家の戦士として戦う)」なのかなぁと。
 まあ「客家の戦士」って単なる中二単語っぽくもありますが(笑)ただそこまで彼らは追い詰められてどん詰まりだったんじゃないかなぁと。「平時」ではなく「有事」とゆう非常事態で、彼らはよるべき教えを失っていたんじゃないかと。
 「教え」はルールとも法律とも違う。「教え」に背いたからと言って罰せられるわけではない(空ちゃんに股間攻撃はされるかもしれないが)逆に夜中に曹徳慈が提灯下げて諭す場面の「それぞれの人生だ」は教えに頼るな自分で道を見つけろ、とゆってるような…と、これは穿ちすぎかな?
 で、皆が「教え」から離れていくのに対して、兄上だけは「正気の歌」を通して360度回り回って「教え」に背かない「有事」の道を見つけた……って流れだったらよかったんじゃないかなって勝手に話を作るな(仕様です)。


[空の話]

 で、これはもうあちこちで言われているんですが、空ちゃんがスーパーレディ過ぎるんですよね。天梓の役所を分かち合ってしまった。いっそアミル並みの清々しい設定の盛りすぎ(笑)、
 個人的に「客家いちの博識」はなくてもいいような。一幕のかわゆい空ちゃんが剣を取るまでの間に理屈や思考はいらなくて、ただ命をまもるとゆう本能があればいいと思うのです。なればこそ、「丙様の温もりを実感として客家の教えに背いて戦い始める」という理由というか契機がよりはっきりするかなと。
 日曜に見てて思ったのは遷都を提案するのは空ちゃんじゃなくてもいいよね?と。失明した兄上に言い含められた、でも、母上のいいつけ(ええ?)でも話は通る。皇帝の前に出た空はあくまでも代理であって、一幕の、客家の教えを守る、可憐な少女でよくて。あくまで受け身、もっと翻弄されるところがあったほうがいいような。
 そうやって、翻弄されて悩んで迷う空がたどり着いた結論が「この腕に残る丙様のぬくもり」でいいと思うのです。あの場面はすごく好きで、理想や想いを追う男たちに対して、腕から感じた「実感」から自分の道を見いだした、て、感じ。実にそれが「客家の女性」、そして「空」らしいなぁと思うのです。
 皇帝に遷都を提言した時はまだ空は「何故武器をとるのかわからない」と悩める存在でよくて。けれども丙様をまもる、命をまもると言う使命を自覚しての「遷都宣言」は、まごうことなき空自身からでた言葉。って対比にもなるかな、と。揺れる空を二幕に入れれば別人感も拭えるかと思った次第だし、繰り返しますが「空が客家の教えにそむく小さな命を守りたいという意志」につながるかと。
 まあ平たくゆうと、空ちゃんもっとアホでいい(笑)。理性よりも本能で。それが周り(男たち)との違いで、その存在が際立つんじゃないかなぁと。



[脚本と演出の話]

 去年、まひろ目当てで観に行った雪獅子の脚本がホントダメで、でも演出はすばらしくて号泣して。で、夏希さんがTS出るにあたりそこを危惧したのですが、今回は脚本が違う方とゆうことで安心していたのですが……あ、あれ?(笑)当時の感想読み返したら舞台の読後感(違)がおんなじでね。
 で、そこから実は問題は脚本じゃなくて、演出なんじゃね?とゆう仮説が。問題とゆうか、脚本と演出の乖離、なんかちぐはぐな感じがしてきてね……。ネットで見かけた噂によるのはアレでアレですが「謝せんせの意向から脚本に毎回かなり手が入っている(改変される)(だからちぐはぐになる)」とゆうのはあながち間違いでもないかな、と思った次第。
 思えば宝塚での柴田作品の謝演出は回を追うごとにどんどん脚本と演出が乖離していったなぁ、と思うのです。「黒い瞳」「激情」「凱旋門」「ガラスの風景」。私、凱旋門大好きなのですが、それゆえに当時から脚本と演出の乖離が気になっていました。男女愛を歌いたい柴田せんせと、命をうたいあげたい謝せんせ、てゆう乖離。で、その後のガラスの風景を経以降、柴田・謝のタッグがなくなったのもその乖離のせいなんだろうなぁと思ってます。
 だから今回も演出と脚本がちぐはぐになったのも、そこはもう謝クオリティなのかなぁと。謝せんせがいろんな意味でスゴツヨ過ぎて、脚本より演出重視の舞台になる、いっそ脚本を置き去りにする、壊す。それでも謝イズム全開の「命をうたいあげる演出」はほんとすごい、あの熱量、そういう舞台と思えばいいんだな、と思っていたらTS慣れしている皆さんは「え?TSってそういうもんじゃん」と最初から割り切ってた模様(笑)。ですよねー。初日のものすごい感動はその謝演出に完全に飲まれたんだろうな、と。
 そういえば、私タックも結構、脚本もやってたな……でも周りが絶賛モードでマシンガンに感想書きずらかった記憶が(笑)ま、あれは正塚脚本だったわけですが。でも脚本変わっても時代が変わっても、うける印象変わらない(脚本はアレだが、役者、演出はすばらしい)からそれがTSスタイルなんだなあと批判ではなく納得した次第です。
 あえて言うなら、謝先生が脚本もやったらいいんじゃないかな、と。そうなった時の謝せんせいのパワーが脚本と演出のどちらにより注がれるのか、興味があります。




 以上。もやっとしたところを整理というか、とりあえず吐き出しておきました。
 この一週間でいろんな人の感想も読んで、いろいろハラオチしたところもあったし、何より舞台はなまものでいきものですから、一週間たってどれだけ変わっているだろうか、と今日が(今日ですよもう)楽しみなのです。


 できたら西北が終わったあたりで、またまとまった文章が書ければいいなぁと思います。




おまけ
 はっかのえすえすをかいたよ!


BACK  INDEX   NEXT