2008年11月01日(土)
かわいそくない


 当日券頂上席で観劇してきました。
 二週間ぶりなのもあり、ソロモン映画で見たあれこれもあり、ものすごくいろいろ心にきました。ものすごく充実、ものすごく満足、でもものすごく消耗(笑)。
 消耗するぐらいに大好きだなぁと、心底思いました。



[雪組メモ:ソロモンアトランダム]

・今回初の頂上席。あ、もう全然ここでいいと思いました。ショーが2階からがいいのはもう定説だと思うし、やっぱり音響かな……。2階客席後方だからこそのサラウンド感?

・上からだと天使が見えないかと思っていたんですが、むしろセットの上に座っている天使を上から俯瞰するという構図がたまらなかったです。なんだろうあの座っているだけなのにあの空気感。

・これで劇場の縦方向にはだいたい座ったので(笑)、今度は横方向をもうちょっと試してみたいです。実はショーの指輪の上のナツキさんがハケるところまでガッツリくらいつきたいという理由で、東宝では常に下手狙いでした。でもこれだと芝居の方でいいところを見逃しているな、と今日ようやく気付きました(今更)。

・しかしショーのガスパールのあの混じりあえなさ感はなんだろうなぁと思っています。なんというか、ものすごく異質、いっそ異物だと思うんですよね。

・映画で色々気付いたジャングルの場面が正に「人とけだものの饗宴だなぁ(ぼかし)」と。その中に唯一、人でもけだものでもないのがガスパールとミストレス、かな、と。

・それでなんでバルタザールが残酷に見えるのかと言うと(まだその話なのか)、やっぱり「ミストレスをはめている」からかなぁと。劇場でそこはかとなくエロいと思い映画でやっぱりエロいと思った西風の前のゆみとなデュエットが今日はあからさまにエロいと思いました。だってあのミストレスさんもうバルタザールさんなしでは生きてイケないって(……かなしい事に一発変換だった……っ)て顔しているじゃない、です、か(どもるな)。終始、ミストレスを翻弄しているのはバルタザールで。そういう「対象」(弄る対象)があるからこそ、残酷さが見える。かたやガスパールは↑でも言ったように、どこか混じりあえていない。ミストレスと唯一踊る場面も、あれはどちらかというと「おなじものどうし」って気がする。「対象」があるバルタザールと、「対象」がないガスパール。まあひらたく言うとこんなにトップ娘役と二番手が組むショーもめずらしいよね。それがオギーの意図なのか(わざとガスパールを孤立させている)……って考える事すらもうおいつかないから無意味な気がしてきたよオギー……。

・そんな風に「対象」のないガスパール自身はどこへ向かっているのか、というかガスパールがこのショーの色々なものを受け止めているのだと思います(能動ではなく受動というか)。やっぱり祝祭は贖罪で生贄だと思う……。ガスパールがみんなに囲まれて踊る場面、あの皆との間にそれこそ環のように生まれる空間がたまらないです。いや、トップさんを目立たせるためにそうやってるってわかっているよ?けれどもあそこでひとり踊るガスパールが、ほんとうにもう「たまらない(やべーの方じゃなくてセリア口調のほう)」って思います。これもひらたく言うと「やっぱりミズナツキさんは受」って事?(聞くな)。

・しかしそんな血染めで受なナツキさんを思うと、割とトップ就任からそんなのばっかりだよね…血吐いたり(沖田さん)、青い血流しちゃったり(閣下)、洗面器でなぐられたり(ジョルジュ)、血まみれで修道院で死んだり(ジェローデル)……いたぶられてナンボって事でいいんですか(笑)
(ちなみに閣下はいたぶられている(受)というよりは自傷行為というカウントです)

・そういえば来年の正月スカステ、雪エリザやるね!買わないで良かった!(笑)今から自分の当時の感想とどれだけ変わるのか楽しみです。ちなみに当時のナツキトート第一印象は「ソリストのおねえさま」です(ええ?)

・話を戻して、ショーの輝のヅラが変わってた!とか、西風のシズルのヅラがしぼんでた!とかゆう話はまったく需要がないかと思うのですが、自分用メモに書いておきます。



[雪組メモ:マリポサアラカルト]

・今日は途中で釜がすごい高速回転して死にそうになりました。しかも高速回転した結果が、その後の舞台での台詞とかにどんどんリンクして「!!!!!!」……ってさあ、むっさん、君、何しに劇場行っているの?(自分でもわからなくなってきた)。公演終わってから落ち着いてマリポサSS(ネロとエスコバルのあれこれ)を書きたいなぁと思っていたのですが、これは今から手をつけないと間に合わないというか(だからさあむっさん)(略)。
 そんな気分になるのは私が今回の芝居にものすごくゆさぶられているからです。ゆさぶられすぎてこの感覚をマシンガンにすればいいのかSSにすればいいのかわからないぐらい……。うわーん、ほんと私何してんだろう、ね(でも本人はすっごくたのしいです!です!)

・今日一番「ぐわん」と来たのは「生き残る」という言葉の重さです。多分、この平和な日本に暮らす私たちの「生き残る」と、彼らの「生き残る」って全然重さが違うなと。本当に命がさらされている環境で、それを乗り越えて「生き残る」。「生きる」「生きている」なら私たちと同じ文脈だけれど、「生き残る」って……その重さにぐわんとなったのです。

・それで思ったのは、この芝居の時間軸でエスコバルは「生き残っている」で、ネロは「生きている」、その違いがあの「生きて何を」をに繋がっていくんじゃないかなぁと。この辺は後でマシンガンかSSにしたいところなんですが、多分、エスコバルは「生き残っただけ」で。それがあの瞬間に初めて「生きている」という実感を手にいれてるんじゃないかなぁと(もっと言うと取り戻す)。
 エスコバルの「生きている証」。それを手に入れる為の「生きて何を」。

・まあ言ってしまえばネロがエスコバルの「生きている証」なんだろうけれど……しかし私は声を大にしていいたい、あの二人ホモじゃないですから!絶対ふたりとも女にしか(略)。

・それなのにアレ、っていうのがネロとエスコバルの最大のキモ、というかきもちわるいところなんだとおもいます(きもちわるい?)(ええもうこの辺は後で弁解させてください)

・ちなみに私の中でエスコバルはカフェの店員、さゆちゅわんとできているという設定です(恋愛感情抜きの方で)……ね?今日の釜のまわりっぷりがわかるでしょ?(聞かれても困る)


(ちょっと間あける)


・セリアの「償いなの?」に対するネロの「違う!」が今日は全然別物に聞こえました。今までは「償いなんかじゃない(償いと思っていない)」だったのが「償いなんかじゃない(償えるものではない)」に。

・ラストのイスマヨール邸での場面、あの日常感が「ネロの守りたかったもの」なのだと思うと無性に泣けてきます。2階のてっぺんからだと舞台がすっぽりと視界に収まるので、それが更に「ネロの守りたかった世界」に思えてなんだか、無性に。

・ネロにとって戦うことは手段だけれど、エスコバルにとっての戦うことは目的だった。それが最後の戦いでは「生き残るために」と言う手段になったんだなぁと思ったら、これもなんだか無性に泣けてきます。



(だんだんSS用のメモに思えてきた)(……)。






 手放しで絶賛できる作品か、と問われると即答はできません。実際私も、最初2週をつめこみすぎて、その時の自分の状況(しごとまつり)もあって、疲れる作品だなぁと思ってて(それで間をあけたのもあるんですが)。
 でもやっぱりこの作品につまっている「生きる」という事に、どうしようもなくゆさぶられます。


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