2008年08月25日(月)
金環蝕の指輪を嵌めたところから僕の全てが燃え上がる


 (ムラに)いってきました。
 (ムラから)ただいまー。


[恒例旅行程メモ]

 相変わらずの三十路一人旅です(笑)。

 8/23 夜行バスで京都行ってアサヒビール大山崎山荘美術館と観劇
 8/24 観劇とナツキ茶
 8/25 観劇して新幹線で帰宅

 本当は一日目はまるきり京都(山崎)観光するつもりだったんですよ。午後からはサントリー山崎蒸留所行って酔っ払ってくる予定だったんですが(笑)、稽古場映像を見て予定変更(主にパーマのせいで)。いやでも予定変えて正解でした。三日で三回観劇、すごい満喫。
 久しぶりに夜行バスをつかいました。もうこの歳で無理かなぁと思っていたんですが、全然平気でした。あー、むっさんどこでも眠れるもんね。むしろ久しぶりでなんかウキウキしましたよ。高速道路から見えるマンションとかビルの非常階段が闇夜にすごくきれいに見えて、自分の中に非常階段萌えというカテゴリを追加しました(笑)。
 帰りは新幹線。やっぱり飛行機より楽でした。値段的には変わらないし、今度からこの組み合わせでいこうかなぁと思いつつ、とりあえず今年の遠征はこれで終了かと思います。



 じゃ、雪組さん感想をしたためておきます。
 なんかもうほんとミズナツキさんが好きすぎてものすごく偏ったものの見方しています。偏った、というかご都合主義なのかも(笑)。当然ネタバレ、というかネタバレしないように、なんて気をまったくつかっていないのでご注意を。





[雪組メモ:ソロモン総括]

 「ほんとうに30分だった!」と初見終わったときにうっかり笑ってしまいました。30分の物足りなさはまったくなかったのですが、いろいろ詰め込まれすぎて全然見足りない!つうか「意味がわからない!」と本気で思いました。オギー史上一番の意味のわからなさ。しかもオギーも説明を放棄しているなぁと(笑)。プログラムの各場面の説明がすごく短くて、もうちょっと説明しようがあるだろうと。まあそれはそれで「皆さんの感じるままに見てください」って事なんだと思うけれど、そう割り切るにはやっぱりオギーの作品はちくちくと棘が刺さるように引っかかって、それが感性だけでは説明しきれないから、私は言葉を求めてしまうのです……ええもうそんなの大好きに決まっているじゃないですか!(笑)
 ほんとぐるぐるさせるなぁオギーは。東宝来たら再度ぐるぐるしようと思います。

 が、実は初見の時、うっかり凹んだんですよね。それはショーの内容がわからなかったことより、「やっぱりナツキさんってオギー役者じゃないよなぁ」と。もちろんそれならそれで別に構わないんですが、そしてナツキさん自身はものすごくイキイキとやりすぎな感じで(笑)今回のショーをつとめているのですが、そのナツキさんが表現しているものって、ほんとうにオギーが表現したかったものなのかなぁと。私はミズナツキさんが大好きなので、ナツキファンとして、そういうナツキさんが見られるのはすごく楽しかったのですが、オギーファンとして「え?」って思っちゃったんですよね。そのギャップに凹んだという……わあ、うっとおしいなぁ。
 でも2回目に観た時に思ったのですが、ナツキさんはオギー役者ではないけれど、ちゃんとオギーの求めている、オギーショー特有の禍々しさを出しているな、と思ったんです。それがどこかと言うと、初見の時に「オギーの方向性とは違うんじゃない?」と思ったやりすぎな面なんですが(笑)。
 ミズナツキさんはあれだけ男役として恵まれた素質をもっているので、やりすぎるとほんとにやりすぎるきらいがあると思うんですよ(日本語おかしい)。なんかやりすぎると色気じゃなくて粘り気が出てくるみたいな?(爆笑)トートとかアオセトナとか。で、今回のナツキさんがもうけれんみたっぷりに銀橋わたっているところとか、ほんとやりすぎててたまらんと思うと同時に、ある種の不快感(これ、肯定的な意味と取って下さい)を感じたんです。でもそこで気づいたのが、そもそも男役っていうのは本来の性を歪めて演じている訳ですから、不自然なまがまがしい異形のもの(不快なもの)と言い換えることが出来る訳で。だって肉布団とかだって一種の拘束具じゃないか(素)。男役とはきれいでかっこよくてすてきで、っていう本来の文脈の裏を返せば、異形のもの、っていう視点になるんじゃないかな、と。それで見るとミズナツキさんの今回のやりすぎ感が非常にオギーショーになっているなぁと思った次第です。
 ちなみにそういう不快感とか禍々しさとか異形感を感じたのが、冒頭の白黒スパンで盆回しされている指輪のセットの上にいるところです。あそこで私、ものすごく不穏な感じを受けて、とっさに浮かんだ言葉が「陳列物」「見世物」です。言い換えれば異形である男役が見世物になっている(またあの落下防止の棒がそう見せているのかもしれない)。オギーショー特有の「禍々しさ」がいやって程にミズナツキさんから醸し出されていたなぁと思ったのです。


 それを踏まえて今回のショーを私なりに解釈すると、ソロモン王の指から逃れた指輪(ナツキさん)が世界を環に巻き込みながらぐるぐると環を描きながら転がっていくイメージです。ゴルフでホールの淵をボールがくるくるまわってカップインする、あの丸いものがえがく特有の曲線がなんども舞台に展開されている気がします。ナツキさんが銀橋を渡るたびに、その銀橋ですら環の一部なんだとものすごく自然に見えました。
 そうやっていつまでもいつまでもぐるぐる転がっていく指輪(ナツキさん)がだんだんそうした禍々しさから解放されていく。ソロモンの指は呪術の道具で、いろいろなものを呪縛するのだけれど、ほんとうに呪縛されていたのは、指輪そのもの(ナツキさん)。
 ショーの中で指輪はしばし拘束する道具として例えられているんですが、でも本当は指輪だって拘束されているんじゃないか。指に嵌められて、その指を拘束しているのに、指輪はそこに存在を拘束されているみたいな?ほんとうに囚われているのはだれ?あたかも互いに互いを拘束しあう、そのイメージですら環として「ソロモンの指輪」というこのショーを構成しているんじゃないかなぁと。
 ショーの後半に向けてその拘束・呪縛がとけていく、そんな物語が見えました。
 前半のやりすぎな(笑)ナツキさんから、後半の海の場面から、何の装飾もない、素のままの肉体だけを駆使して踊るナツキさん、そして白い喚起の場面で呪縛からの解放。私の大好きなナツキさんの笑顔が見られる唯一の場面。そして転がり続けた指輪は、全ての装飾もなくなって何もなくなって、指輪でありながら環でなくなって(環としての動きを止めて)眠りにつく。

 っていう風に私の中では繋がって行ったんですが、今日三回目を見てきたら、最後にセリ下がるナツキさんがまたちょっとやりすぎな感じの思わせぶりな顔をしてセリ下がって行くのを見たんですよね。うわ、もうせっかく人がいろいろ考えたのに今ので全てダイナシ!(いやそもそも自分の解釈に合わないからって怒るなよ)(笑)。でも今帰ってきて、こうやって反芻していると、またあそこからショーの冒頭にもどって、また指輪は禍々しく「異形の人」の姿を借りて、環を描き始めるのかもしれない。終わりからまた始まる。それすらも「環」なんじゃないかなぁと。


 という訳で、これが大劇場公演時のナパームスクエア的テンプレです。多分東宝では違うのが出てくるんじゃないかなぁと。ほんとうっとおしいし素直に見ろ何も考えるなって感じなんですが、私にとってオギーショーはこれが一番の醍醐味なんです……困ったひとだと思って目をつぶってやってください。


[雪組メモ:ソロモンその他メモ]

・「タランテラ!」で「有沙×天勢」という娘役かけざんを提供してくれたオギーが今回もやってくれましたよ。今回は「麻樹×舞咲」です。うわ最強!喰らいつきたい!かけざんというか女子プロタッグ?(笑)。実にいい使いかただなぁと思ったんです、大好物です。オギーはいつも舞咲をちゃんと使ってくれるなぁ。たんなるイジワルっ娘でもお色気アハーン部隊でもない、これが正しい舞咲りんのつかいかただと思います。

・初日映像ではなかった、楽園の場面でのナツキさんの月桂樹の冠に軽く引いたのですが(笑)、あれは後ろにあったソロモンの指輪の等身大模型(違)に蔦がからまっているのとおそろいにしている、って事でいいんですかね?うわあ、やりすぎ(笑)。

・統括メモに書き忘れたのですが、ナツキさんが今回のオギーショーに提供している禍々しさはあの声、っていうのも勝因のひとつだと思うんですよね。

・動物(美女)の中ではゾウさんの衣装が一番かわいいと思いました。つうかさゆちゅわんにゾウさんて、なんかすごく納得(つうか皆それぞれドンピシャで怖いぐらい)。


[雪組メモ:マリポーサ総括]

 前々段のソロモン総括を引きずるのですが、それで男役として恵まれたものを持ったナツキさんがやりすぎたが故に生まれた禍々しさがショーに生きたと言いました。それに対して芝居の方はやりすぎというかやればやるほど、本来の文脈の男役として生かされていく、演出家の意図にもそっていく。そんな感じを受けました。どちらもナツキさんが力いっぱい男役を演じている訳ですが、それが正しい方向に作用しているのが芝居、正しくない方向にいきつつ結果としていい作用になったのがショー、そんな風に思っています。だから今回はほんとショーも芝居も見ごたえがありました。
 が、芝居はこれ下級生ファンから見たらしんどいだろうなぁ、というのが正直な感想です。いや私主演者のファンだから全然見れちゃうんですが(うわぁ)。
 でもなんだかんだで、私は正塚先生の「生きる」物語が大好きなので(ああ好きそうだねと失笑されそう)、マリポーサもいろいろぎゅうーと掴まれながら見ていました。
 今回のネロという主人公は、誰よりも何よりも「生きる」という重さを、「命の重さ」を知っている人だなぁと思いました。いっそ生きることに執着してると言ってもいいような。ただそれは、過去に死んでいった者たちに支えられた(いっそぶら下がられた)重さだとも。償いならば、それを軽くしようとするのだけれど、ネロはただその重さを抱えながら生きていく。どんどんネロにとって生きることも命も重くなっていく、けれどもそれを全て自覚している、そういう男だなと。
 そんな過去の者の重さで「俺の命はそういう命なんだ」と言うネロが。唯一今生きている命の重みを己の命に重ねたのがセリアだったんだなと思いました。過去の者の為に生きるのではなく、今生きている君の為に俺は生きる。
 かたやエスコバルは、ネロと同じ境遇を乗り越えて、ネロと同じ絶望を味わってきたけれど、彼はその過去の者の命の重みを背負わなかった。己の命だけの重さで生きてきた。そんなエスコバルに「俺の為に生きてくれ」とネロがエスコバルの命に自分の命の重みをかけて、でもエスコバルは死んでしまい結局エスコバルの命がネロの命に重みをかけた……なんかすごく象徴的だなぁというか、ぐっときてしまいました。まあ実際にはちょっとエスコバルが「俺はなんの為に生きてきたのか」と急に悩み始めちゃったな(書き込みが足りないな)と思うのですが、そんな風に思ったのです。
 それにしてもネロはひどい男だなと思います(笑)。ナツキさんも茶会で「あんなふうに別れられたら耐えられません」なお手紙をもらって、そこが男性と女性の思考回路の違いなんだろうねみたいにゆっていたのですが、なんというかネロ(男)が「生きることは愛すること」ならセリア(女)は「愛することは生きること」……ベタですみません。っていうか私まったく同じフレーズを何かの公演で書いた気がする……あれ?

 やっぱりちょっと長いなぁとも思うのですが、でもものすごく命と生きることに対して、切なくも希望が持てるような(「絶望に染まらない」)いい作品だなぁと思いました。


[雪組メモ:マリポーサその他メモ]

・という訳で帰りの新幹線の中でSSを書きました。とれたてです(笑)どうぞ
 まだ大劇場公演のものなので(未見の人も多いでしょうし)、いつも以上に反応薄いのは覚悟しているんですが、もしよかったら拍手だけでも押してやってください(いやSSSってびっくりするぐらい反応もアクセスもないんですよね)(需要がないってことだよ)(ああ!)



 と、とりあえずむっさんすごく楽しかったんだね!と思ってもらえれば。





 しかし、ああいう変なハマり方をしたから、そのうちはしかみたいにケロリと(ミズナツキ熱が)治るんじゃないかと思っていたんですが(病気なのか)、一向に治る気配がありません(言われても)。



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