2007年09月16日(日)
そして共に踊ることで二人の記憶がよみがえるのです


 ゴーヤをスーパーでみかけなくなりました(この夏の後半はお世話になりました)。季節の変わり目ですね。


 KEAN観てきました。にかいめ。


[星組メモ:KEANつれづれ]

 初見の時、ちょっと消化不良で「ん?」と思っていたんですがまあ初見だからということで2回目にのぞんだのですが、やっぱり「ん?」となりました。あ、あれ?
 初見の時にも言ったように、評価が分かれる中、私的には「アリ」判定だったんですね。普通のお芝居として面白かった。でもなんだか消化不良に陥ってしまったのは、この芝居を「アリ」判定したのが自分の中の普通の芝居好きな部分が判定したにも関わらず、観劇姿勢がタカラヅカを見るときと全く同じだったからからだなぁと、今日気付きました。ぶっちゃけ「妄想する余地」と「萌え」が探せない(それがお前のタカラヅカ観劇姿勢か)(ええまあ)。もうちょっとガッツリ「普通のお芝居として」観て消化しようと思っていたのですが、それができなかったんですよね。更に言うと、初見でも2回目でも睡魔に勝てなかったんですよね(……)。割とどんな駄作でも寝ない方なんですが(単に疲れていただけじゃないか?)。だから頭では「面白い」と思ったのに身体は受け付けなかったって事かなぁ……。
 総じて、いつもの文脈で感想がかけないのですよ。うううう……。



 消化しきれないままですが、自分用メモとして思ったことを書いておきます。
 初見の時に思って、とりあえず保留しておいたことなのですが、どうやらこのまま考え的にはかわらなそうなので。


[星組メモ:イズディスタカラヅカ?]

 専科に行って各組主演するようになってからの御大にずっと「男役としての記号化が進んだ」と思っていたんですね。轟悠、というよりは男役として特別な存在、超越した存在、という感じで。ところが今回初見の時にはた、と思ったのですが「あれ?御大ってタカラヅカじゃないんじゃね?」ということです。わたくしの持論としてのタカラジェンヌの定義に「いつかはやめるもの」が一番にあがっているのですが、それと照らし合わせるとやめない御大はタカラジェンヌではないんじゃないかと。もちろん「やめないタカラジェンヌ」という例外(理事)は存在している訳ですが。で、私も最初は御大をそのカテゴリに入れていたんですが、でもこうやって主演をする御大はその例外カテゴリでくくるより、実は「やめないタカラジェンヌ=タカラジェンヌではない」という文脈に添わせたほうが正解なのではないかと。
 更に今回のKEANを観て「あ、タカラヅカじゃないこれ」と思いました。何度も言っている「普通の芝居として面白い」はつまり「タカラヅカじゃない」という事なんです私的には。
 そうするとあの日生劇場でやっているものは「タカラジェンヌでないひとがやっているタカラヅカでない公演」という事になります。

 それを私は全く否定するつもりはありません。むしろそれならそれで新しいと思うので。ただいつも思うのは、それに劇団は気付いているのかな、という事なんですよね。タカラヅカという定義、タカラヅカという存在意義。それが挑戦なら大いに歓迎したいのです。でもそれが無意識ならばちょっと危険かなぁと思うのです。御大が専科に行ったとき、「男役芸を継承する」「第二の春日野八千代として」「男役の象徴として」みたいな事が謳われていたと思うのですが、実際に御大がやっている(劇団がやらせている)ことはそんな「守り」ではなくて、宝塚という概念を崩すかもしれない「攻め」だと思うんですよね。
 ちなみに似たような事をだんしんくれーじーの時にも思いました。あの時のOGを使ったユニセックスな女黒燕尾、タカラヅカの性別をやんわりと崩すような、新しいカテゴリを作り上げたようなアレ(詳しくは当事の日記を見てください)(不親切)。あの時も「あれ?これは意図的?無意識?」と軽く困惑したので。


 なんというか大喜利風に

 タカラヅカのようでタカラヅカじゃない
 タカラジェンヌのようでタカラジェンヌじゃない
 それが何かとたずねたら(べんべん)

 という気分になっています(非常にわかり難い)。


 もひとつ補足すると、初見の時に言った「これ星組公演じゃなくて轟組公演だよね」というのも、↑で言った「タカラヅカじゃない」に繋がります。逆に「星組公演」(=タカラヅカ)ではなく「轟組公演」(=タカラヅカではない)とした方が実際おさまりがいいんじゃないなぁと。もっと言うと今回の星組生にとってこの日生劇場公演に参加ってほぼ「外部出演なんじゃね?」とも……いやそれは言いすぎか。


 ※とはいえここで言っている「タカラヅカではない」のタカラヅカはあくまでも六実視点、六実判定、六実解釈の「タカラヅカ」です(一応、強調しておきます)。




[星組メモ:柚希の話]

 もう今回これでもかというぐらいれおんにどっかんどっかんきています(史上初)。
 で、今回「れおんなのにおどらされていない!」っていうのをあちこちで見かけるんですが、むしろ私はそれがいいなぁと思っています。二番手、といっても主役はあくまでもキーンなので、れおんが割をくっちゃっている気がしなくもないんですが、でも逆に言うと、御大がこの作品でやらなくちゃいけないことをすべてやってくれているので、れおんは「プリンス・オブ・ウエールズ」として、かっこよく出る事だけを要求されてそれに応えている。歌って踊って芝居をして笑いもとって、八面六臂の活躍の御大の傍で、ただ存在していればいい。それによって柚希礼音という人のもつ「王者の血」「選ばれしもの」感がものすごく出たと思うし、それがまた「プリンス」にぴったりだったなぁと。もうちょっとつっこんでいうと、こういう舞台でのあり方は、タカラヅカの本公演じゃできないと思うんですよね(タカラヅカの本公演の二番手だともっと色々な役割を要求されるはず)。まして自身が主演するバウ公演とかでも、こういう(舞台での)ありかたは「ありえない」わけですよね。だからこれはこれでありだなぁと思うのです。なによりこれでむっさんどっかんどっかんきたしな。れおんかっこいい(しらふ)。


[星組メモ:その他いつものメモ]

・この作品が消化不良なもう一つの理由に、タカラヅカじゃない(のにタカラヅカとして観てしまった)ことと、やっぱり物語がわかりにくいこともあるのかなぁと。
 結局この話は「キーンの自分探しの物語」でいいんですかね(聞くな)。「何故シェイクスピアはキーンという男の役を書かなかった!」と自分を見出せなかったひとりの役者が、すべての役から私(キーン)が生まれる、と自分を見出す、と。
 でも正直シェイクスピアの名台詞とかにそういうものがわかりにくくなっているような気がしなくもない。あと後キーンとプリンスの関係はどうなったのかなぁとか、エレナとの関係はどうなったのかなぁとか、アンナとの関係はどうなったのかなぁとか、そういう全てがキーンの自分探しに紛れちゃっているような。あ、あれ私ちゃんと物語理解できていない?(致命的なんじゃね?)

・水輝君が通し役ついていなくて、もったいないなぁと思いました(あ、あのネヴィル卿と一緒にボックス入っているのは役名あるのかしら?)。でもちょこちょこ色んなりょんりょんが見れたかなぁと。物売りでかわいいりょんりょん(あいつやっぱりかわいく出たいんだ)に、「うわあロンドンの下町で煙突掃除してそうなコだ!」と妙に反応。そしてその下町でかっぱらいをしてその日暮らしをしているしゅん吉と出会……なんでもない、なんでもない(笑)。
 あとキーンを迫害する場面(?)のりょんりょんが鬼畜で素敵でした。白手袋ですっと手をあげる様がやけにハマる(うっとり)。

・アヲノの楽屋お掃除はアドリブなんですね、アレ。私が初見の時には、薔薇を花瓶に戻そうとして、でも入らなくて「はいらない〜〜」と諦めともセルフツッコミともつかない間で爆笑したんですが(笑)。いい舞台の勘しているなぁと思います。




 なんか楽しくない感想ですみません。
 なんかすっきりしないので、もう1回ぐらい観たいなぁと思っています。








 話は全然変わるんですが、「地球へ…」でついにみらゆか変換してしまいました。だってタレ目と黒髪ツリ目(?)だし!ってそんな変換するのキミだけだから!(先生ここにまだmryk者がいます!)がついに来週最終回ですね。十何年ぶりにアニメをワンクール見切りました(まだ終わってないけれど)。面白かった。終わったら封印していた原作本買うのが楽しみです。


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