2007年07月16日(月)
しゃっくりをとめる100の方法(のうちのひとつ)


 この三連休はめずらしくアクティブに出歩いていました。友達と地元飲みしたり、台風の中美術館梯子したり、雪組観に行ったり、献血行ってまた血管細いって断られたり(もう多分出来ないんだろうなぁ)(凹むな)、ゆなひこ君と「博多のプラン立てようぜ」と会合してきたり(別に一緒に行くわけじゃないのに)(単なる飲みです)。あ、ゆなひこ君との会合で出た新しい単語に「涼教授」があったことをお伝えしておきます(何?また新しい遊びを始める気?)(笑)



[雪組メモ:前段]

 雪組さんマイ初日、そしてマイ楽でした。いいんだ、その分8月の諸々にまわすんだもん(だもんて言うな)。というわけで、あくまで1回しか観ていないという事を前段として。

 正直、とらえどころがなかったなぁというのが感想です。質実剛健の雪組さんのはずなのに、いろんな意味ですごく新しいエリザベートでした。が、その一個一個の新しさというか今回の雪組版として新解釈はできるのですが、そのそれぞれが繋がらなくて全体として、解釈しきれなかったんです。こういう時は2回目観ると大体なにか答えがでるんですけれどね……。でもそれはそれで、とりあえず思いつくままざらっと書いていきたいと思います。


[雪組メモ:輝彦さんの件について(輝彦さんて誰だ!)]

 開幕十五分にして、わたくしの金平糖釜に砂糖を投入したのは意外な事に凰稀かなめさんだったのですが(!)(六実さん史上初の輝萌)な、なにあのヘタレ眼鏡医者!(そっちなのか)
 何あのものすごいヘタレ感。眼鏡、眼鏡ずり落ちてる!(もちろん萌え眼鏡ではない)。なんというかうだつの上がらない貴族の三男坊が頭だけはいいので、医者になってはみたものの実は血が苦手とか成人女性が苦手とかそういうヘタレな部分があって、それで小児科の先生なんだけれどつきそいのお母さんとか(美形医師に会うためにこぞって着飾ってくる)まともに見れずにでも子供にはでれでれの笑顔の優しい先生という感じでした(長い!)。きっと「シシィちゃんはもう大人だから私の担当では(大意:おとなのおんなのひとは苦手なので)」「緊急事態なんです、早く!」ってつれてこられたんだと思います。何その具体的な妄想(これは冒頭のとなみシシィの少女時代に第二次性徴は始まっている(声変わりもしました)のにまだまだ中身は子供で、小学六年生ぐらいみたいだなぁ、と思ったことに繋がります)(私の中で)。

 まあそんな金平糖はさておきまして、輝彦さんのルドルフなんですが。
 なんというか彼は今、自分をつなぎとめることで精一杯なんだなぁと。沈む世界を救う前に、沈むじぶん自身を救うほうが先で。革命もドナウ連邦も彼にとってはどうでもいい事で、ただそれは彼の存在自身を繋ぎ止める細い糸でしかない。ずっと「ママに愛されなかった」寂しさが積もり積もった故の「政治的反逆」行為。その最後の糸が断たれてしまったから、彼はもう死ぬしかなかった、と。
 歴代ルドルフの、この「積もり積もった寂しさ」は大人になったルドルフの中に内包されていて、彼の「政治的反逆」は彼自身の思想、あるいは父親への反発、あるいは彼自身の政治、という形で表されていて、それがダメになった時に、実はその内包されていた「積もり積もった寂しさ」が発露する。トートはそこに付け入る。だいたい歴代ルドルフはそういう解釈だったと思うんです。
 ところが輝ルドルフには「積もり積もった寂しさ」は内包ではなくて、「政治的反逆」はそれを押し隠す「大人」という外枠でもなくて。そこにはただただ寂しいだけの子供がいました。これにはびっくりしました。まあ一言で言えば「ダメな」ルドルフでした。何て甘ちゃん。何て子供。
 けれどもそれゆえに、全てを絶たれた彼の絶望が余りにも深かった。もはや自分の生きる道、生き残る道はない、生きる希望がない、というのが今までのルドルフだったと思うのですが、輝ルドルフはエリザベートに拒絶された瞬間、その存在すら否定されたに等しいと思うんです。かろうじてつないでいた最後の細い糸をぷつりと絶たれてしまって、黄泉の帝王に囚われた。……今まで一番(大人として、皇太子として)ダメなルドルフでした。でも一番可愛そうなルドルフでした。
 新しいルドルフ像だと思いました。

 が、これだと実はエリザベートとの「ママは僕の鏡」「この世界で安らげる場所がない」と全く繋がらなくなってくるんです。安らげる場所を探す前に、彼はその存在を脅かされていたんじゃないかなぁと。


[雪組メモ:ユミコ氏の件について]

 「嵐も怖くない」の銀橋渡りで、「あなたのお気持ちは良くわかるの」「ありがとう」というところ。私ここの「ありがとう」が好きなんですね、どのフランツも一番素が出るというか、シシィに恋するひとりの男の姿(時には少年)が見えるので。
 ところがユミコフランツの「ありがとう」は、恋するひとりの男じゃなくて、あくまで皇帝としての「ありがとう」に見えたんです。「あなたのお気持ち」をシシィは「フランツがシシィを恋する気持ち」として解釈して「よくわかるの」って言っている(と今までも思っていた)んですが、ユミコフランツは「国家と臣民の為に生きる険しい道を歩くもの」をシシィが「よくわかるの」と言っていると解釈して「ありがとう」と言っているように見えたんですね……うわ!最初からこのふたりすれ違っているよ!

 ごめん私にはそう見えた。

 面白いことにユミコフランツからは「マザコン皇帝」は感じられませんでした。彼は彼の信念で意思で、「強く、厳しく、冷静に、冷酷に」なっているのだなぁと。同じ文脈でハマコゾフィーからも、エリザベートを「妬んでる」感はなかったです。なんというかユミコフランツもハマコゾフィーも「しきたりを守る」事を至上としている感じでした。規律を守ることがハプスブルクの安泰に繋がるとハマコゾフィーは信じているし、ユミコフランツもそれを自分自身の意思で信じている。親子としてではなくて、同じ信念を持つもの同士として「強い絆で結ばれている」。
 そんな風に規律を守ってきたフランツがエリザベートの為に「自分の信念を曲げて」エリザベートの要求を受け入れる一幕ラスト、フランツの「破戒」という言葉が浮かびました。
 でもそれを返すと「破戒」をしてまでも、エリザベートへの愛を貫いたフランツ。己の信念をまげて、ハプスブルクを守ってきた規律をまげて、それでもふたりはすれ違ったままで終わってしまった。本当に最初から最後まですれ違っていたとしか思えない、そもそも余りにも違いすぎたふたり。すれ違いではなく、「違う」ふたり。なんというかそこまで徹底して「すれ違っている」と思ったのは今回が初めてです。だから、すごく最後の「夜のボート」が悲しかった。このフランツもちょっと新しいと思いました。

 でもその「破戒」故にハプスブルクは崩壊したと言えなくもない。「強く、厳しく、冷静に、冷酷に」守られてきた「規律」が破られた事でハプスブルクは崩壊した、あれ、エリザベートって悪女ってことか?なんというか、ユミコフランツとハマコゾフィーがあまりにも正々堂々としているので、一瞬だけですがエリザベートがわるものに見えてしまったんですね。それはそれで問題のような気もします。


[雪組メモ:音月桂ちゃんの件について]

 音月桂ちゃんのルキーニ。割と全肯定です。いい仕事してた。ルキーニって狂言回しということで、やりすぎちゃうきらいがあるかと思うんですが、また客席もなんかやってくれるルキーニを期待しているんだと思うんですが、音月桂ちゃんのルキーニはまったく遣りすぎてなかった。それなのに空間を動かしていたなぁ。一番唸ったのがバートイシュルの場面で、どかっと腰を下ろして歌っていたところ、あれ新しいなぁ。単に動きとして新しいだけじゃなくて、あそこで動きを止めてもちゃんと舞台の空気に乗っかっていた。ああもうそのやりすぎなさ感がすごくいい。
 が、ルキーニの狂気は全く感じませんでした。なんというか終始一貫「俺はマジだぜ」。彼にとっては全てが真実だから、それを信じない裁判官を「こんなこともわかんねぇのかい」とあざ笑う余裕すらあって。今までのルキーニは狂気の正常の狭間、みたいなのがあったような気がしているのですが、そういう狂気がなかった。なんかこのルキーニもも新しいなぁ。
 ただ最終的にルキーニは狂気をもってしてエリザベートを刺すわけですから、そこにどうやって持って行くのかなぁと2幕を観ていたら、トートに剣を渡された瞬間「狂気」に豹変。それがようやく表舞台に登場した役者みたいでした。待ちに待った出番を得て、飛び出てくる役者。あの狂気はホンモノの狂気じゃなくて、限りなくホンモノに近い演じられた狂気、だなぁと。
 その舞台の脚本を書いたのは、少なくともトートではない、と思います。


[雪組メモ:アマセの件について]

 アマセのヴィンデッシュ嬢も、狂気ではなかった。これまたびっくりしました、あ、あたらしい?
「自分をエリザベートと信じている狂女」ではなくて「精神を病んで病院に閉じ込められている可愛そうな女」でした。それゆえにエリザベートとの対比が「あなたは自分をエリザベート(皇后)というけれど、皇后の孤独はこんなものではなくて、皇后に比べればあなたは自由なのよ」ではなく「精神を病んでこの病院に閉じ込められているあなたより私はもっと自由ではない」になっていました。……これは、アマセ自身の解釈?演出の解釈?今までと同じヴィンデッシュの狂気を期待していたので、正直すごい肩透かしをくらいました。これはこういうものとすればアリだと思うんですが、盛り上がりに欠けちゃった、と感じたのも事実だなぁと。
 その「可愛そうな女」よりも自由でないことでエリザベートの孤独を浮き彫りにするには、余りにも今までの演出と違いすぎるので、どうしても先入観がたってしまったなぁと。アマセの演技としては嫌いじゃないんですが、むしろなんてかわいそうなの、と抱きしめたくなったのですが。


[雪組メモ:で、ようやく水先輩のトートの件]

 水トートがどうみてもソリストのお姉さまにしか見えなかったこととか、ヅラの緑が思っていたより映えなくてああ梅雨時ですからね、な色に見えちゃったりしたこととかはさておき(怒られます)、なんというか水トートはバケモノ感が強かったです(もっと怒られます)。うーんなんて言えばいいんだろう、この世に存在しないもの、幽霊、憑き神(あ、それかも)。とにかく「黄泉の帝王」という個体には見えなかったんです。だから「黄泉の帝王がひとりの人間を愛してしまった」物語には見えなかった。その代わりに、「トート=死]」というのが良く見えました。エリザベートの死への衝動が具現化されたもの、ルドルフの死への衝動が具現化されたもの、エリザベートが最後まで戦い続けた己自身の「死」、ルドルフが翻弄された己自身の「死」。トートはエリザベート自身であり、トートはルドルフ自身である。実際、「黄泉の帝王、死」であるトートの存在には、エリザベート、ルドルフの死への衝動を投影した存在である訳ですが、それがそのものずばりに見えたのは今回が初めてでした。ぶっちゃけトートがエリザベートの、ルドルフの作り出したものに見えたんです。だからこの世に存在しないありえなさ感が満載でも構わないんです。トートがオネエでも、トートのヅラが光合成していても全然問題ないんです。だって、黄泉の帝王は実は存在し得ないものだから。
 そう言った意味では「トート」という存在に限りなく近づいたのが水先輩のトート、だと思うのですが、これはあくまでも宝塚版の「エリザベート」で、トートは「エリザベートを愛する死」という「個」を持たなくては物語が成立しない。けれども水先輩のトートは「死」そのものだった。死に「個」はいらない。水先輩のトートに個がなかった、というより、より限りなく「死」に近づいてしまったという感じです。トート(というか水先輩の)ソロ場面も、愛を歌い上げる場面もあるのに、最後の昇天場面まで「トートはエリザベートが作り出した幻影」感が消えませんでした。

 あたらしい、このトートも新しい。
 けれどもそれだと、実は宝塚歌劇としてなりたたない(主演男役がなりたたない)と思いました。





 以上、私が今回の雪組版で「あたらしい」と思ったところです。
 あたらしい、確かにあたらしい、でもそのあたらしいと思ったパーツパーツが全く繋がらないのです(私の中で)。そのパーツひとつひとつはすごく面白かったり興味深かったりするのですが、ひとつの作品としてまったく繋がらない……ものすごい消化不良でマイ初日マイ楽が終わってしまいました。見方間違えたかなぁ……。不完全燃焼のまま幕。


 ただひとつ思った事は、「エリザベート」を繰り返しやることはもはや諸刃の剣なんじゃないかなぁと。言い方悪いけれど、「エリザベート」というタイトルロールを、無理矢理トートの物語(宝塚主演男役がやるに相応しい物語)に歪めたひずみが、今になって露出している気がします。結局、「エリザベート」は「宝塚」じゃないんだよね。




 うーん、言葉足りなかったらごめんなさい。


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