2006年07月02日(日)
月を方敷く


 どうにもこうにも、オンオフ切り替えスイッチが壊れたみたいでダメです(気がつくとオン(=仕事)のことばかり考えちゃっている)。今までも切り替えられているとは思っていなかったけれど(仕事中(=オン)にSS(=オフ)書いてたりとかな)(こらー!)、それでも自分の心身を守る程度には無意識に切り替えていたんだなぁと、ちゃんと棲み分けてたんだなぁと実感しました。


 大丈夫、とって喰われる訳じゃないんだから(と、いつも言われる)。





 とりあえずしゃべりまするー(私にとってはとても必要なことなので)。



[宙組メモ]

 管轄外ではありますが、今日を逃したら絶対に言えなくなると思いまして。
 ちなみに宙組公演はちゃんと一回観ているんですが、感想を書いたらあまりにも不謹慎というか脇の話しかしてない自分にちょっと呆れて黙って封印しました(だって、暁×蓮水とかかけちゃったて言えないよ)(うつむき)。
 ハナフサさんの最後の公演を観ながら、ふと自分が宝塚を見始めの頃を思い出しました。何を見ても「うわあ」となっていたあの頃、「タカラヅカ」そのものスペクタクルだったあの頃。ああ、この人は誰よりも何よりも私にとってタカラジェンヌだったんだと思いました。晩年はそれを見失っていましたが、私が一番最初に好きになったトップ娘役、私にとっての「トップ娘役」とはハナフサさんだったんだなぁと。
 千秋楽中継は最後のほうだけ見ていました。なんだかすごいものがお茶の間に流れ出したな違和感もぬぐえないのですが(見てはいけないものを見てしまったような)、それはさておき、何度も何度もカーテンコールに応えながら、何度も何度もありがと、ありがとと言っていたタカオさんにぐっときました。ありがとうございます、じゃなくて、ぽろぽろとこぼれてくる「ありがと」「ありがと」、たくさんの応え切れないファンの思いに、それでも精一杯できる限り「ありがと」「ありがと」と応えているようで。

 ご卒業おめでとうございます。なんだかまだ全然実感ないんですが、というか多分このまま実感ないまま終わってしまいそうなんですが、その時は、きっとふたりはどこかで幸せに暮らしているのだと信じて物語の最後にするんだと思います(結構真顔です)。




 ひき続き今更感満載な帝国メモ。
 幸せを運んでくれるガラスの競艇ボートに会う前に(ええ?)。



[帝国メモ:宇宙開発事業団(ウィリアムの話)]

 いきなりですが、しぃちゃんで一番好きだったのが、一幕で「なんか嫌だったから」でエンマを逃げたところで、二人で踊って「ワルツはもっとうっとりと踊るものよ」での「どうやって」(説明長い)。
 ここの「どうやって」が私には「これ以上どうやって君を好きなことを伝えたらいい?」に聞こえたんですね(すごい空耳)。でもあそこはウィリアムの想いがエンマにズバンと直球ストレートに突き刺さった(エンマはまだ意識をし始めたばかりなのにズバンと)(笑)場面だと思うので、そんなにそれてはいないような?(聞くな)。それぐらいしぃちゃんの想いがぐわーっと詰まって高まってはじけそうなぐらいに「どうやって」だったと思うんですね。あの想いの込め方、いや詰め込み方がすごい良かった。

 「どうすればいい」「どうやって」はウィリアムのテーマだと思うんです。ウィリアムはどちらかといえば受動的な主人公だと思うんですよ。実は物語を動かしているのはその周囲の人たちであると思うし。でも最初から最後まで受身じゃなくて、そのウィリアムが「エンマの為にできることをする」と動き出すまでの物語なんじゃないかな。ウィリアム腰重いよ!(笑)だからそんなウィリアムのテーマは常に「どうすればいい」「どうやって」だと思うんですね。どうすればいいかもわからずに、周囲の状況に乗ってイギリスまでとりあえず来てみたウィリアムは、エンマとの出会いで「なんかいやだった」を景気に自ら動き始める、自ら動くことを覚えるんじゃないかな。アーサーとの確執をちゃんと解消するのもその「自ら動くことを覚えたから」できたことなんじゃないかなとって話がそれたー!
 で、エンマが死んで、エージェントそのものが無くなろうとする時に「ちょっと待ってください」と言うニール。エンマの死に「どうすればいい」「どうやって」と立ち止まりそうになったウィリアムに「どうすればいい」という事を示唆してやったんじゃないかな。「それでいいな」とウィリアムにひとつの回答を与えた。考えすぎですかそうですか、でも楽間際の涼さんの感情の入れ方もあいまって(前述)、すごくいい場面だなぁと。馴れ合うだけが友情じゃないというか。いやしぃすずっていいよね!(きらきら)


[帝国メモ:NASA(立樹遥さんの話)]

 今回、立樹遥さんについて私なりに気付いたことを話します。

 二回目に観たときに、細かいところはさておき、まず思ったのはしぃちゃんの場内専有力に心底ウットリしました。あのバウホールと言う空間をぐわっとわしづかみにしている立樹遥さん、なんか空気の隅々までがしぃちゃんで満たされているーという感覚。言うなれば「ミストしぃちゃん」((c)ちゃらさん)。いやー、癒されますね、マイナスイオンですね(話がずれてる)。思い返せば全ツの楽にもジェラシーの場面で会場をぐわっと掴んだ立樹遥さんにぐわっと私のこころも掴まれたなぁと……。
 そんな風に場内を専有する立樹遥さんを、全ツの時には「うわあこのひと思っていたよりタカラヅカスターだ!」と思ったのですが、今回、その力は立樹遥さんにとって実は諸刃の剣なんじゃないかなぁと思ったんです……。

 場内専有力(またしてもわかりにくい新語をつかってます)を持っている立樹遥さんは「おっきい」とも言えます。で、おんなじように「おっきい」と思うのは我らがトップスターのワタさん(類まれなる愛の広場の持ち主)なんですが、ワタさんのおっきいとしぃちゃんのおっきいは似ているけれどちょっと違うような……。
 ワタさんおっきさは舞台人としてのおっきさは(度量の広さと言うか深さというか)(どんな駄作でもどんなニンに合わない役がきてもそれなりに演りこなしてしまう、とか)なんですが、立樹遥さんの場合はなんというか、しぃちゃんそのものが大きいと言うか……伝わらないことを覚悟で言うと、立樹遥さんは場内を専有するどころか劇場そのものを包んでしまっている感覚すらしたんですね。
 立樹遥さんは、ともすれば「場所」になってしまう人だと思いました。
 あまりにもおっきすぎて、入れ物の中身じゃなくて、入れ物そのものになってしまうと思いました。
 今回の公演は、その立樹遥という劇場で皆が思い思いにのびのびと演じていたんじゃないかと。
 幕開けで軍服のしぃちゃんと燕尾の涼さんが踊る場面、あの場面がすごく好きだったんですが、最初はかけざんカウントだったのに、最後には対等に踊っているはずなのに、涼さんがしぃちゃんの胸を借りて踊っているように見えてきたんですね。立樹遥という空間で思うが様に踊っているように見えた。
 もうひとつ象徴的だったのが、フィナーレで最後に出てきたヒヅキを「出迎える」しぃちゃん……冷静に考えるとすごい新しい!と思ったんです。普通なら出迎えられるのは「主演の男役」なはずなのに。でもそれがすごく良かった、ぐぐっときた、相手役を出迎えてエスコートしてそれこそ内包してしまってそこに「在る」という佇まいの立樹遥さんは(それをやっても全然へこたれない、負けてない、しっかり存在している)、やっぱりものすごい広い「場所」であるんじゃないかと。
 すごいことだと思うんですよ、だって立樹遥さんはそこに「在る」ことができるのだから。ひとつの存在ではなく、場所として「在る」ことができる。なんてことだ、なんてひとなんだ。
 でもそれを諸刃の剣と言ったのは、それって実はすごく「わかりにくい」事なんじゃないかと。あの場内専有力、「在る」という存在感、わかりにくいんじゃないか?だって私たちは当たり前のように地球に立っているじゃないですか、それを地球と意識せずに、それと同じことで(ええー?)。


 っていうかこのテキストが最高にわかりにくい。
 中途半端でごめんなさい。でも今回の舞台が紛うことなく素晴らしかったのは、大野先生の脚本でもあるし、出演者の熱演もあるけれど、立樹遥という「場所」を作れるひとが主演だったから、っていうのもものすごく大きいと思うんです。

 言い過ぎてたらごめんなさい。
 敢えて言うまでもないんですが、しぃちゃんが大好きです(免罪符のつもり?)(いえ真実として)。






 帝国メモはこれで終わりです。と、とりあえず言いたいことは言えました。
 あとはSS書きたいんですが、多分無理だろうなぁ。無念(予告なんてするもんじゃないわね)。


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