2006年04月02日(日)
用法・用量を良く守って


 さようならベルばら、さようなら星組、さようならおーじーさーまー!!
(待て、最後にソレが来るのか?)(つうかベルばらはまだ雪組あるし)

 本日昼がマイ楽でした。観劇中は相変わらずもやもやひゃーひゃーうわーうわーやっていたんですが、フィナーレでこれでおじさまとお別れかと思うと真剣に悲しくなってしまいました。もう正に最後の円舞曲です(まりえ姫コス)。……あー、すごいことだったんだなー、探さなくても曲解しなくても(笑)、黙って観ていれば「ヘイお待ち!」とばかりにおじさまが出てくるってことは……(遠い目)。ファンの贔屓目なのは重々承知で言わせてもらおう、綺麗だった、素敵だった、大真くんの燕尾姿。

 (恥ずかしくなってきた)

 そういえば公演中に四年生と二年生に会った時に「やっぱり(オマージュにおける)おじさまのキモは『苦悩感だよね!』」という事で満場一致しました(苦悩感、ってなんだよソレ)。


 大真当番日誌は下に沈めます、痛いから(えー?これ以上痛いのー?)


[ナパームスクエア的ベルばら総括]

 というわけで、足掛け半年。星組のベルばらが終わりました。ムラにこそ行かなかったものの、全ツを北海道まで追いかけ、東京公演を○回観た(もう伏せるなよ)(一桁ですよ)私が何を言っても「このベルばらオタクが!」「つうか星組大好きっコが!」で終わってしまうと思うのですが、楽しかったです、楽しみました。

 唐突に。ベルばらは「再演」じゃなくて大掛かりな「役替わり公演」なんじゃないかと思いました。特出とかそういう役替わりだけじゃなくて、ベルばらを再演することが「役替わり公演」。一番最初の初演以降は皆役替わり公演、もっというならば初演ですら(原作を本役とした)「役替わり公演」。
 涼さんがお茶会で「ベルばらは各自の個性を出すんじゃなくて、いかに原作のイメージに、宝塚の型としての役作りに近づくかがキモ」みたいな話をしていたんですが、実はそれは全然逆で、イメージや型があるからこそ、それぞれの役者(役替わり要員)が自由奔放に「ベルばら」を解釈していっているんじゃないかなぁと。
 時々スカステで再放送している過去のベルばらを観ると、ほんと驚くぐらいに全く変っていないんですよね。誰が言うかは違っても台詞は一言一句違っていないし。ベルばらが再演される度に「新しいベルばらを」って言っているけれど結局変っているのは「出ている人」だけ。それを非難するわけじゃなくて、そういうものなんじゃないかなぁと。役者が代わることで代わる解釈を楽しむ舞台、だから「役替わり公演」(私的にはすとんと落ちた)。

 今日はもう最後だからうっとおしい考察とか解釈とかやめて素直に楽しんでくるぞー!と思って出かけたのですが、またなんかいろいろうっとおしい考察とか解釈とかして帰ってきました(積みあがる課題)(いや誰も課していない。)ナパームスクエア的ベルばら総括としては、後はトウコさんのオスカルの話と椎ベルナールのSSを書けば終わりとふんでいたんですが!が!が!(計画なんてあったのか)(つうかSSかよ)。
 だったら別に黙っていればいいじゃん、心の中でツッコみつつも、うちのお客さんなら生暖かく見守ってくれると思うので(甘えるな!)、とりあえず体力続く限り書き綴っていきたいと思います。



 以上を直訳すると「うざいですよ」って事です(はいはいもう前置きはいいから)。



[涼ジェローデルの話]

 公演中盤で唐突に気付いたのですが、今回のジェローデルってオスカルの事を好きっていう設定はなくても問題ないですよね?もちろん涼さんがそういう設定でやっているのは知っています。ただ、涼さんのジェローデルを観ていると、「ジェローデルはオスカルが好き」という設定は無い方がむしろすっきりする気がしました。もっというと「かつて好きだった」という設定の方が萌えると思うんですよね?(萌え、て)
 これは涼さんのジェローデルが「オスカルが好き」という態度を匂わせていないとか、そういう意味じゃなくて、涼ジェロの佇まいがそう思わせます。劇中で何度となく「涼ジェローデルは傍観者だ」と思ったんですね。別に今宵一夜を覗き見したから(いやしてない)という訳じゃなくて、涼ジェローデルは自分の領分を徹底して線引きしているんじゃないかと。
 ジャルジェパパにオスカルが殴られた時、ジェローデルがオスカルに駆け寄らないのは、間髪入れずアンドレが駆け寄るからじゃなくて、駆け寄れないんじゃないかと(多分、アンドレがいなかったとしても駆け寄ったりかばったりしないと思う)。そういう距離感を感じたんですね。もっと言うと、オスカルをずっと見ていた(それこそ今宵一夜も)(だからそこにもっていくなよ)ジェローデルは、オスカルとアンドレの間には入り込めない、というのを絶対的な事実として理解している。そして「アンドレにはかなわない」「自分はアンドレのようには出来ない」という事も。きっとジェローデルが最初にほのかにオスカルに恋心を抱いた時に、既にオスカルにはアンドレがいた、そしてオスカルの想いはフェルゼンに向いていた。
 ジェローデルにはフェルゼンのように「かなわぬ恋と知りながら」突き進むことも、オスカルのように恋心を押し隠す事も、アンドレのように「報われぬと知りながら」ただ自分だけが思いつづけることも、できなかったんじゃないか、と。かた恋をする前に終わってしまったジェローデルの恋。自分の中に芽生えた恋心を、育てることができなかった。彼は常に自問していたんじゃないのかなぁ、自分はどうやら隊長が好きらしい、けれども自分はあのように恋に向かうことができるのか、フェルゼンのように、オスカルのように、アンドレのように。きっと今回の物語の時間枠では、そのオスカルへの恋心に既に終止符を打っている。だから「かつて好きだった」。一幕最後で「様々な愛を知った」というフェルゼン、でもそのフェルゼンの愛も知っているジェローデルは、フェルゼンよりも一つだけ多く「様々な愛を知った」立場であるのかもしれない。って考えると萌えませんか?(聞くな)
 そう思うとこのベルばらって、「初めて心から愛する人を見出した時」に、(その時点では)それが叶わなかった5人の物語なのかもしれない。アントワネットは「初めて心から愛する人を見出した時」に王の妻であり、フェルゼンは「初めて心から愛する人を見出した時」にそれは叶わぬ恋であり、オスカル、アンドレ、ジェローデルは「初めて心から愛する人を見出した時」その相手は他に想う人がいた、という図式が成り立つ訳です。ところが最終的にはフェルゼンとアントワネットが(いや最初からではあるけれど)、オスカルとアンドレがくっつく訳ですから、ジェローデルがまんまと余りますな……教訓:合コンは男女同数でって話がずれてる!

 もう一つ、ジェローデルの線引き、そして傍観者であるのを感じるのは、やっぱり彼が「貴族」だからかなぁと。人間である前に、男である前に、「貴族」だったんじゃないかと。これは涼さん自身の「貴さ」が充分に発揮されたが故かと思います。面白いなぁと思ったのが、涼ジェローデルはどうみても平民には味方してないですよね?ブイエ将軍に「隊長と同じ意見かね」と問われて、意見は同じというけれど、その理由が違う。オスカルみたいに平民を守る気持ちではなく「約束を破るのは悪い事」っていう理由、もっと言うとオスカルの言う事だからジェローデルは「同じ意見」な訳で。実際に、原作ベースで考えるとあそこでジェローデルが「同じ意見」と言うのは違和感があるんですが、この線引きと「そうは言ってても涼さん、いやジェローデルは貴族だし」というのが見えてくるので、違和感は全く感じないんです。
 その後、フェルゼンに助けを求めに行くジェローデルも、徹底して貴族だと思います。彼の文脈に平民への同情と革命への同調は全く無い。けれども時代を見つめ、見据え、事実を理解し、そして隊長の遺志を継ぐ為だけにやってきた。
 正直、今までのフェルゼン編のジェローデルの存在って、ずっと違和感があったんですよ。えー?隊長の意思を継いでスウェーデンまで行っちゃうのはジェローデルな訳ー?って感じで。それが今回すとんと落ちた。何故なら彼は傍観者だから、結局のところ傍観者だから。だから「キャー!(今宵一夜をのぞき見するなんて)ジェローデルさんのエッチー!」(しずかちゃん声)(お湯ばしゃー!)と散々ネタにしていても、割と今回の話の構成はアリでした。二幕頭にジェローデルの回想という形でバスティーユが入るのはうまいなぁと思いました。(また話がそれるんですが、ムラの初日後にこの脚本の改造を聞いた時に、回想しているジェローデルは常に舞台の端にいるもんだとずっと思い込んでいました)(爆笑)。
 この「涼ジェローデルは傍観者だ」が先日のSS1に繋がっていった訳です。
 そんな事を今日はずっと考えていまして、ふと、ジェローデルはこの後どうなるのだろうかと思いました。やっぱり最後まで貴族として生きていくのか、あるいはフェルゼンに協力したかどでギロチン台に上がるのか、それともまだ国境にいるのか(笑)。でも傍観者の彼は、このまま生き残っていくんじゃないだろうか?(そして本を出すといい「貴族の目から見たフランス革命」)(ベストセラー間違いなし)そんな感じに「傍観者」涼ジェローデルはすごく興味深かったです。


 で、妄想ベースで考えると「傍観者」であるが故に、彼は時代の波に乗っていけるんじゃないかなぁと思いました。王妃の処刑でジェローデルをある意味しばりつけていた「隊長の遺志」から開放されて、いっそ貴族という身分も離れて、財界で大活躍。そして下町の心優しい娘と結婚してくれたら私的にはすごい沸騰します。でね、その心優しい下町娘が(削除)(伏せているのに削除)(うっかりSS書くところだった)



[トウコオスカルの話]

 今回のベルばらには本来あるべき「設定」が全く不要、あるいは意味をなしていない、ひっくり返されている、というのがあるかと思います。脚本的に設定が消えているもの(アンドレの失明)もあれば、脚本的に曖昧になっているもの(↑で言った「ジェローデルがオスカルを好き」)もあります。
 更に「今回のキャストであるが故に設定が消えている」のもあります。その一つが「椎アンドレ(前半)は影ではない」、もう一つは「トウコオスカルは男である必要がない」なんです。
 最初、トウコさんのオスカルは妙に違和感があったんですね。妙に女々しかったし、軍隊で女の権利を主張するあの場面も腑に落ちない。けれども途中で、トウコオスカルは、他のオスカルのように「男として生きている訳ではない」んだと気付いたら俄然繋がってきました。
 男として育てられてはいたけれど、この物語の時間枠では完全に女なんだと。いや、男として育てられてしまったが為に、女としては不完全。トウコオスカルの迷いとかゆらめきは、男と女の間を行き来するのではなくて、女と女でないものの間を行き来するが故の、迷いとかゆらめきに見えます。「お前女だったのか!」じゃなくて「お前女じゃないのか!」です(……もしもし?)
 そう思うと、トウコオスカルは常に「女としての自分」を求めているような気がするんです。女としての自分が愛する相手を、女としての自分が生きていく術を。女としてのアイデンティティーの確立、かなぁ。思うにフェルゼンと出会う前のオスカルは正に(原作通りに)「自分を男として信じていた」「男として生きてきた」んだと思うんです。それがフェルゼンに出会ってから女として目覚め(でもこの時点では不完全)、それがアンドレによって女(完全体)になった(……)。トウコオスカルの「愛の巡礼」は正にそういう巡礼だったんじゃないかと!
 今宵一夜を越えて、ようやく女として完全体になったオスカル。その地に足の着いたというか、命のきらめきみたいなものはほんと素晴らしいと思いました。オスカルという存在は最終的には「貴族である前に、平民である前に、男である前に、女である前に、人間らしく生きようとした」存在だと思うのですが、トウコオスカルの場合、最終的には「女」なんですよね。それ故に、逞しい。大きな声で言っちゃいけないかもしれませんが、私今までずっと「彼の死を無駄にしてはならない」をずっと公私混同と思ってたんですよ(だって!あの騒乱で死んだのってアンドレだけじゃないじゃーん)(……ごめんなさい)。けれどもトウコオスカルの場合はそれが正しい文法で成り立つ。愛しい人を、自分の夫を、自分の半身を喪ったからこその、あの「強さ」なんだと思います。ほんと後半戦のトウコオスカルはスパークしまくってました。神がかり的にすら見えた。それはやっぱり「女」としての力な気がします。巫女?(ボソリ)
 という訳で、「トウコオスカルは男である必要がない」と思った訳です。そう思ったら全部納得いったんです……って駄目ですか?(怯)。でもすごく新しいと思いました。新しいオスカル、ほんと驚いた。ほんとあの人何しだすかわからない、目が離せない……安蘭けいさんに対して畏怖に近い尊敬を抱いています、本気で。



 とりあえず、今日はここまで。
 明日中には語り終えたいと思います。














 しずめてます。

[大真当番日誌]

 とりあえず今日のメモ。

・農民小芝居が激しくなってました。じゃがいも転がしてくるのは耳に挟んでいたんですが、そのじゃがいも生食しようとしてました(笑)。ちゃんとズボンのところでヨゴレ落として。生で食べちゃ駄目ー!とツッコんだら「しらないの?じゃがいものびたみんしいはすいようせいだからちょうりしだいではえいようかがさがっちゃうんだよ?」生意気な小学3年生の声で聞こえてきました(どういう空耳だ)。あと、フェルゼンを見て「あの人背おっきいねー!」といわんばかりに、背伸びをして「背、これぐらいー?」なジェスチャーをし、「あの人すごいくるくるだねー!」といわんばかりに、耳元で指くるくるさせてました。……それ、「くるくるぱぁ」とでも言っているように見えるよ?(笑)きっと村の男ミランは後で「そう言えばこの間のあのくるくる?今日も国境付近で誰かを待ってたよ?あのでっかい人はどこ行ったんだろうねぇ?」って勝手にあだなつけると思うよ?(つうかやっぱりジェローデル置いていかれているのか!)。

・薔薇タンは「星組サイコー!」でした。その後、皆で一文字ずつ分解して何か順番に叫んでいたんですが、何を言っていたのか解読できませんでした。つうか、今日もすごい逆立てっぷりだったんですが!モヒカン?(素)
 (以下小学3年生モードでお願いします)
 ……きっとあれ、お風呂でシャンプーしている時に、泡で形作ってシュミレーションしているに違いない。
「ねーねー、ゆかりー、こういうのどうかなぁ?」
「どうでもいいから早く流せ」
「やだよ目にしみるんだもん」
「つぶればいいだろ」
「僕シャンプーハットがないと駄目なんだもん!」
 林間学校二日目の夜の設定で。つうか今でもシャンプーハットってあるのかなぁ?(むっさん戻って!)

・あと宮廷の場面もなんか小芝居してました。百花さんと踊り始める前に、誰かになんかアイコンタクト送っていたんですが詳細わからず。あとフェルゼンが来たときにも隣りのしげちゃんとなんかやっていました……(小芝居)ポイントカードたまったなぁ!(無駄にサワヤカ笑顔)

・あとブイエ将軍への罵倒も聞きとれなかった……もー、色々やりすぎるんだよ!(でもそれが嬉しいんだろ?)(まあね)

 最後の最後でいろいろ拾いきれませんでした(グラウンドでうなだれ)


[大真当番日誌:総括]

 今回の心のアルバム検証はさておきまして。ちょっと今公演で総括的に思ったことを。
 思えば大真担になって幾星霜(違)。で思い返せば大真堕ちした2003年〜2004年っていうのは、大真くんのお芝居を堪能していた時期だったと思うんですね(この頃は少なくとも新公で「お芝居」が見れたので)。で去年2005年はお芝居的には振るわなかったんですが(中日王家ぐらいかなぁ)、ショースターっぷりというかダンサーぶりを堪能できた年だったなぁと思ったんですね。じゃあ今年2006年は、と考えた時今年は「ビジュアル堪能期」になるんじゃないのかなぁ、と思ったんです(今なんつった?)。いや、普通にカッコ良くなったなぁと思ったんですね(今なんつった?)今までは「大真くんカッコいいね!」って言われると「いやそんな私が大真担だからって気をつかわんといてください!」と必要以上に謙遜していたんですが、その気持ちが大分薄れたというか(………………ちょううざい)。なんというかビジュアル的に(私の)許容範囲内から(私の)ストライクゾーンに入ってきたかも、というか(………………ちょううざい)。
 いや、顔が良ければそれでいいって話ではなくて、本人の意識がそういう方向に向いてきたんじゃないかなぁと。最近のスチールの成長振りとか見ても。あと今回前髪プレイに手を出してきたと思いました。薔薇タンに限らず、結構色々やっていたなぁと(外す率も下がったと思う)。こういう判定は基本的に私の範疇ではないのでアレなんですが(笑)、それでも今回はそれが目につきました。……まあ、今回しどころがないから前髪でもイジっておくか!な文脈はすごいはっきり見えているんですけれどね!(言っちゃ駄目ー!)でもそういう事をしている大真くんがすごい新鮮でした。そう言えば私、今年は大真くんの必修科目に「萌え髪のマスター」を挙げてたんですね、なんだかそれとも繋がって感慨深いです。
 で、そういうビジュアルに気をつかう大真くんを見ながら、じゃあ今までなんであんまりそういう方向にいかなかったのかなぁ、と考えたら大真くんの中にそもそもそういうビジュアルをいじる「モテ」の精神はないよな、と思ったのです。でも「男役」(つうか紳士)(つうかおじさま)のビジュアルいじりはしていると思うんですけれど、「モテ」ではないなぁと。で、大真みらんさんのカテゴリーに「エスコートキング」ってあるじゃないですか(キス魔ともスケコマシとも千人斬りとも言う)、それって娘役ちゃんが言うところの「寄り添っていることで相手役がもっと素敵に見える娘役になりたい」の対義語「寄り添っていることで相手役がもっと素敵に見える男役になりたい」なんじゃないかと………………えええええええええええええええ!!!!!(自分でひいた)(でも何かうっすら見えてきた)。つまりは意識は自分ではなくて相手に向いている?……宮廷場面で一緒に踊る百花さんがなんだか今日はすっごくかわいかったんですね、それを見ながらそんな事を考えていました。ああ、青の洞窟のしげちゃんもかわいかった、花市場のオトハナもかわいかった、マダムはうっとりしていて、今日のももかさんはきらきらしていた……ああ!(なんかあたまいたくなってきた)。
 「ほう、大きく出たようだね?」(おじさま口調)な事を言っていますが、それは大真担だからしょうがない(いやこんなこと言い出すのKIMIだけだ)。でも割と自分の中ではちょっと今後のキーワードになりそうなんで書いておきます。


 新学期も大真当番がんばりまーす!(何事もなかったかのようにいい笑顔で!)


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