2006年01月09日(月)
心は広いが了見が狭い


 三連休の一日目は仕事で潰れ、二日目の昨日は文字通り病に伏せっておりました(突如襲われた腹下しと吐き気と猛烈な悪寒と高熱)(これは一回吐いた方がいいとかとりあえず市販薬飲んだ方がいいとか寒いから毛布増やした方がいいとか頭では判断できるのに全くベッドから出られなかった)(しんどかったよう)。で、三日目の今日、どうにか復調させて花組さん観てきました。
 以下、病み上がりの人の「この人どうかしているんじゃないの?」「つうかこの人どうにかして」テキストです。病み上がり、病み上がり(……予防線?言い訳?)(どっちもだ)。


[落陽初見メモ]

 ようやく花組さん初見。このようやくは東宝初日からではなく、ムラ初日を起点にしたようやく、です(そんなに待っていたのか)(うん)。

 脚本がアレな部分は、風の噂に聞いていた通りでしたな……。どうして最後の最後で「おとぎばなし」(ヴィットリオがドンブイユ公爵の息子だったという話以降を、私はあえてそう称します)にしちゃうのかなぁと思いました。いや、その「おとぎばなし」は宝塚らしくて非常にいいと思うのですが、そこに至るまでの「イタリア統一を舞台にした身分違いの愛」の物語(これもこれで宝塚らしくていい)とは乖離しちゃっているんですよね。なんというか、ふたつの作品の前半後半を切り貼りしたみたいな?それぐらい色合いが違ってしまっていた気がします。
(以下うわごと)

 が、この物語の実の主人公は曾孫ヴィットリオ(ユミコヴィットリオ、ヴィットリオ・F)なんじゃないかと思ったら、割と物語のアレな部分がすとん、と私の中に落ちてしまったんですね。
 ヴィットリオ・Fが恋人のジュディッタを自分の家に連れてきた一番の目的は、御婆様にジュディッタを紹介することでも、アメリカ亡命の金を工面することでもなく(もちろんそれも目的だけど)、「ヴィットリオとアンリエッタ」の物語を話して聞かせるためだと思ったんです。日毎夜毎に、「ヴィットリオとアンリエッタ」の話をするヴィットリオ・F、自分たちの運命を重ねながら。
 「ヴィットリオとアンリエッタ」の物語は、本当は二人が別れてしまったところで終わるはずだった。そしてヴィットリオ・Fはだからこそ僕らは幸せになろう、「ヴィットリオとアンリエッタ」の物語とは違う物語を紡ぎだそうと、そう締めくくるつもりだった。悲劇は繰り返してはならない、同じ過ちを繰り返しつづける人の歴史の中で、僕たちだけは過ちを繰り返してはならないと。けれども同じように「ヴィットリオとアンリエッタ」の物語を自分に重ねて聞いていたジュディッタは聞く「それで、その二人はどうなったの?」、この物語に続きはない、いやあるかもしれないがそれは物語とは呼べないものかもしれない。それでもジュディッタは聞く「それで、その二人はどうなったの?」……ひたむきにかなしみを浮かべた瞳で、その瞳が懸命に「ヴィットリオとアンリエッタ」の物語の結末が幸せであって欲しいと願っている、そして自分達は幸せになれないかもしれないけれど、「ヴィットリオとアンリエッタ」は幸せであって欲しいと願っている。そんな恋人の悲しい請願に、ヴィットリオ・Fは「ヴィットリオとアンリエッタ」の続きを語る。
 作り話のハッピーエンド。おとぎばなしじみたハッピーエンド。恋人につく小さな嘘。ジュディッタは気づいてしまうだろうか?僕のこのつたないおとぎばなしが嘘だということを。けれども僕は間違っていないと思う、おとぎばなしにすぎなくても、その物語の続きは、「ヴィットリオとアンリエッタ」を、そしてかわいそうなフェリーチタの祈りを救う物語のはずだから……。幸せな結末に、ジュディッタはほっとしたように息をついた。そして、言う。「もし二人が幸せにならなかったなら、私たちも幸せになれないと思ったの。でも二人が幸せになれたから、私たちも幸せになれるわね」……涙を浮かべた目で笑うジュディッタ。ああ、そうか彼女は気づいているんだ、僕のついた嘘に。けれども彼女はそう言った。そうしてそれまでのためらいや迷いを全て捨ててくれた。時代と僕への愛の為に幸せを捨てようとしていた彼女が、「幸せになれる」そう言って彼女は決心をしてくれた……。

 しまった!SS書いたほうが早かった!(そっちが早いってどんなんだ)(笑)。

 つまり私が感じた「おとぎばなし」な部分がヴィットリオ・Fの捏造(なんて言い方なんだ)とすると、割と納得できるんですよ!(誰も納得しませんよ)。「ヴィットリオとアンリエッタ」の物語は本当は結ばれなかった物語なんだと。

 じゃあヴィットリオの血筋はどうやって残ったのかというと、そりゃあの窓から侵入してきた一晩が大当たりして、……いやでもそうしたら時系列的にあわないよ!でもまあとにかくそこはなんとかしてもらって、「ヴィットリオとアンリエッタ」の血を引いた子供が生まれるわけですよ。
 じゃああの壁にちゃっかりかかっている肖像画はどうなんだと言うと、それは子供か孫の世代が報われなかった両親(あるいは祖父母)に敬愛を込めて捏造(だからなんて言い方をするんだ)する訳ですよ。
 じゃあ御婆様が持っていたロザリオはどう説明するかというと、ヴィットリオが最愛のアンリエッタに届けてくれと誰かに託して辺境の地か戦場で死んだ事にすればいいわけですよ。

 だめだ、自分で言っててちょっと破綻してきた……(ダイナシ)。
 でも↑の破綻と今回景子先生が舞台で広げているちいさなほころびは、それほど変わらないような気がするんだけどどうでしょうか?(駄目だよ)

 ※ちなみにプログラムは未見です。噂の家系図とやらはみてませーん。

(うわごと終了)

 むっさん?ふぉんとからーF×6にしたからって何でも言っていいって訳じゃないのよ?

 まあ、こんなうわごとを言ってしまうのもひとえにユミコヴィットリオがすばらしくカッコよかったからなんですが……!キタよ、ユミコキタよ(私だけに)。あのちょっとやさぐれたわがままぼんぼんの風情の中に何事にも負けない強さを見出してしまってずぎゃんときたんですね。一番キタのは、ひとり旅立とうとするするジュディッタを見つけてはっ、としつつもその次の瞬間には「ひどいな……」と苦笑する。あれは本当に強いひとじゃないと出来ないと思うのよ?「ヴィットリオ・Fとジュディッタ」の物語は、きっと必ずハッピーエンドに終わると思います。そしてアメリカで年老いて先立つジュディッタにヴィットリオ・Fは「ひどいな……僕をおいていくなんて」と苦笑する。僕はあんなに悲しい泣き顔を見たのは初めてでした、苦笑いすら浮かべているのに、哀しみよりも深い悲しみがそこにあったのです(ヴィットリオ・F・Jr談)(……SSするなら余所でおやり!)
 あすかたん共々いい仕事でした……でもすんごい地味なんだけどね(うつむき)。観る人によってはヴィットリオ・Fのぼんぼんな部分しか目に付かない(そして鼻に付く)とは思うんだけれどね……(なぜそこで否定的になる)。


[落陽メモ:ケーコたーん!]

 私が一番「ケーコたーん!(恐慌)」と思ったのは、「おねぼうさん」ではなく(これは予備知識があったからかもしれないですが)、ヴィットリオさんが窓から忍び込んだ時に入った風エフェクト、そしてそれに伴い木の葉がひらりと室内に入ってきたところです……なんて少女漫画的手法なんだ!あの人そのうち薔薇しきつめるよ!

 ケーコたんだからなのか、あるいは女性演出家なのだからかはわからないのですが、景子先生でほう、と思ったのは革命(民衆の反逆)シーンで悲しみが全面に押し出されていたところです。革命(民衆の反逆)シーンって他の宝塚作品でも出てきますけれど(バスティーユだってそうだ)、たいていそこで打ち出されるものは「怒り」であったり「時代を変えるエネルギー」であったり「時代を象徴するエピソード」であったり「物語の起承転結の転」だったりするんだと思うんです。それが景子先生の場合は「悲しみ」が全面に押し出されいた。そこにひとりひとりに人生があって、その人生が踏みにじられて、愛しいものを失った悲しみがあって、だからこそ彼らは戦っている……そういうのが見えていた。だからその後の蘭寿先輩の「俺たちはもう我慢できない!」がものすごく真実味を帯びてくるんですよね……これは感心というか心打たれました。……とりあえずキムシンは見習うといい(真顔)。



 花組組替えを機に黒髪まと部活動に聖(違)をだそうと思っていたのですが(だって星組にいる以上あの人やあの人やあの人ばかりみちゃうんだもん)、色々考えているうちに「つうか宝塚のトップスターって女王蜂なんじゃね?」と話が激しく飛躍してしまいました。
 今日のところは「ああ、真飛さんは青い山脈をやるために組替えしてきたんだなぁ」というコメントだけを残しておきます。ほっんとに素敵だった、息止めるぐらい素敵だった、なんてあのひと素敵な昭和ハンサム。




BACK  INDEX   NEXT