2005年10月20日(木)
百万本のバラの花をあなたにあげる(涼さんなら実現できる)


 今日明日と代休連休。
 青年館行ってきました。


 ※ネタバレしてますよ。






[龍星メモ:終わらなかった物語]

 児玉作品にしては、と私も言っておきます。つうか普通に面白かったです。いや、すごく面白かった。が、最後の最後でどうしてもひっかかってしまった点についてマシンガンします。

 「龍星は絶望したままだったのか?」
 
 ところで、名前が無いという事は存在が無いということに等しいのかなぁと、龍星を見ていて思いました。で、存在とは何で成り立つかというと「過去」と「今」と「未来」なんじゃないかなぁと(いきなり哲学ですか)。
 龍星には「今」しか無いように見えたんですね。孤児である自分自身の過去を消し去り、自分自身の未来を何も見出さずに、ただ龍星を欲している。龍星という名前、その存在、過去もあり未来もあるその名前を。「みなしごのくらいひとみをその過去を消し去りたい」みたいな事を歌っていた龍星も、自分にだけ笑えればいいと言う龍星も。雪に残した足跡を消し去る(つまりは過去を消し去る)(実際にはそれぐらい速く疾走するという意味なのかもしれませんが)という龍星も、正に今だけを生きているような。
 過去に裏切った(葬った)人たちが出てきて、それにたましいを吹き込むようにしてまるでゲームのように操って子供のように楽しんでいる龍星(ここの安蘭けいさんがすごく秀逸)も、なんだか他人を思うように操ってただ今だけを楽しんでいるような、その場限りの娯楽に耽っているような、そんな風に見えたんです。
 その龍星に対するように霧影がいる。霧影には名前があって存在がある。「いい人たち」な家族に囲まれた過去があって、今があって、未来もあって、そしてさらに「未来のその先」その(星になって再びめぐり会う)すらも霧影は持っている。という意味で対極だなぁと思ったんです。
 でも本当はそんな龍星にもちゃんと「龍星」ではなくて龍星自身の(みなしごだった名無しのゴンベさん自身の)、過去が積み重ねられているんですよ。砂浬に白い花を贈りつづけたのは「龍星」ではなく、龍星自身(みなしごだった(以下略))だと思うんですよ。そして飛雪が仕えていたのは「龍星」ではなく、龍星自身(みなしご)だと思うんですよ、砂浬が哀れだと思ったのは皇帝「龍星」ではなく龍星自身(名無しのゴンベさん)だと思うんですよ。
 私、最初は龍星は死ぬと思っていたんです。「本物の龍星」が現われる事によって龍星の存在が失われる、そういう物語だと思ったんです。だから最後に砂浬と飛雪が出てた時に「え?」と思ったんです。で、「あ!」と思って↑みたいな事に思い当ったんです。龍星は「本物の龍星」を倒す事により「龍星自身」(砂浬が愛し、飛雪が慕った)になれるのではないか、その時初めてこの人は『龍星』という名と存在を手に入れることができるんじゃないかと。龍星自身が消し去ろうとした「過去」を受け入れて、龍星自身として生きていけるんじゃないかと。死にゆく砂浬と「来年は梨の花を一緒に見に行く」と「未来」約束し、次に生まれ変わって砂浬を愛すると「未来のその先」を誓う。ちゃんと龍星自身の「過去」と「今」と「未来」、つまりは存在、そして『龍星』という名前を手に入れる……。
 ところが龍星はラストにも「みなしごのくらいひとみをその過去を消し去りたい」と歌います。ええ?君まだそんな事を言っているのか?と驚いたんです。というかそこまで龍星という名前に執着するのかがわからなくなった、だってあそこで砂浬と飛雪が出てきたことで君の存在は証明されているんだよ?龍星自身でいいんだよ?もうなんでそれがわからないのもうりゅうせいくんのバカ!(目に涙うかべつつ)(やめなさい)
 というわけで、最後に龍星自身としてではなく『龍星』としてでもなく、「龍星」として玉座に座ったところに違和感を覚えたんです。この人、何も得ていない何もわかっていない。逆にそこできっぱり終わるならそれも良かったんですが、その後に花蓮が出てきて「男たちの物語」みたいに総括(違)するじゃないですか?その男たちの中に龍星は入っていないように思えたんです、未完の龍星はこの物語の最後から外れてしまったような気がしたんです。
 更に違和感を感じたのがその後のフィナーレ、子供時代の自分自身を抱きしめる龍星、それが龍星が「龍星自身」の「過去」を受け入れたんだと思ったんです、「龍星自身」を認め手に入れたんだと思ったんです。でもそれが物語ラストの龍星とはどうしても繋がらない。フィナーレを別物と考えればいいんでしょうが、でもやっぱり関連つけるじゃないですか?投影させるじゃないですか?(例えば王家のフィナーレのデュエットでラダメスとアムネリスが別次元で結ばれたのねほろり、みたいに)それは観客側の勝手な思い込みじゃなくて、演出も役者もその投影を意図しているわけじゃないですか?ラストに歌うあの歌も、龍星が「龍星自身」として『龍星』となってからだと、あの歌詞も生きてくると思うんですが、絶望したまま未完の龍星には繋がらない。フィナーレだから別次元だからつうか宝塚歌劇のフィナーレだから大団円、とは受け取れなかったんですね。
 (まあとりあえず落ち着け)
 いや、単に私が「こうなったらいいのにな」解釈を押し付けているだけかもしれませんが、でも私の中で私なりに咀嚼して解釈してきた物語の一番最後の部品がぽろりと外れてしまった感じです(ぽかーん)。
 龍星と霧影は単なる入れ代わりの物語というだけではなくて、その対比として面白かったと思うんです。上でも言った「今」しか持たない龍星と、「過去」「今」「未来」「未来のその先」まで持っている霧影。でも霧影だって「霧影」という名前は本当の名前じゃ無かったわけじゃないですか?名前そのものはあっても「霧影」ではない、「霧影」という存在ではない。けれども霧影はちゃんと自分の力で自分自身を持っていたんだと思います。だから自分が本当は龍星だとわかっても、何も揺るがず何も変らず、自分自身をしっかり持っていた。自分自身の存在が「名前」に頼るものではない、と。龍星は「名前」が無いと、自分自身の存在がないと思い込んでいた。そういう対比、悲劇なんだと思います。
 星に「未来」を、「未来のその先」を託していた霧影、星から出た凶兆を笑い飛ばした龍星。そこもまた対比であったのかと思います。

 児玉っちは何が言いたかったのかなぁ(真顔)。本当に数奇な運命に弄ばれたかわいそうなみなしごとして、トウコさんに龍星を書いたのかなぁ。その為に最後に砂浬と飛雪を最後に出して、龍星が「龍星自身」でありえた証拠を失わせて、尚も龍星として君臨するしかない、その哀れさを書きたかったのか……でもそれはあまりにもひどすぎるかわいすぎるつうか鬼だよ児玉っち。本当にそうしたいなら、そう徹底すれば良かったのに。そうしたいならあの可愛そうな黒猫龍星のままで幕を下ろせばいい、フィナーレなんていらない、かわいそうなままにして客席がボーボー泣けばいい。その方がすっきりするよ?(私的にはね)

 補足になってしまうのですが、龍星が李宰相を殺した時点で、本当は龍星は「龍星自身」として『龍星』を手に入れることができたんじゃないかと思うのです。「龍星自身」を見ていた砂浬・飛雪に対して、李宰相は龍星に「自分の息子・霧影(が皇帝になること)」を見ていた。
 更に言うと烏延将軍は「龍星自身」に龍星という名を与える事によって「龍星自身」を封じ、龍星をつくりあげそのつくりあげた龍星を見ていた。皇后やその他の登場人物も龍星を本物の皇帝と信じて、「龍星自身」を見てはいない。そう思うとやっぱり龍星が「龍星自身」を手に入れるのが物語のテーマでいいような気がしてきた(超手前味噌)。

 というわけで、私の中ではこの龍星という物語は完結しなかったなぁと思った訳です。龍星はいつまでも龍星を欲して龍星になれず龍星自身にも戻れず、あの玉座に座っている。多分彼には「名前」も「存在」も一生手に入らない。死するときまで龍星を追いかけつづけている、絶望したまま……なんて救いのない物語なんだろう(めそめそ)。


 いつもの事ながら伝わらないマシンガンでごめんなさい。つうか括弧括り多すぎ。


[龍星メモ:ヒロインが書けない児玉っち]

 「天の鼓」を観た時に児玉っちは娘役が書けないと言ったのですが、正しくはヒロインが書けないんだなぁと今回思い直しました。花蓮も李夫人も鳴沙も狄妃もいいキャラクターだったのになぁ(え?そこで狄妃(オトハナ)も入るのか?)(いやぁあれは良かったよすんごい強そうで)(本気で戦っていた)(オトハナ強い!オトハナ最強!)(すみません話がそれました)。ちなみに皇后は男子カウントしておきます(笑)。
 龍星について砂浬と鳴沙が語り合っているときの砂浬の台詞のいちいちがひっかかるというか、馴染めなかった。すごく陳腐に思えたんだよね、なんだか借り物っぽい。古今東西のありがちな台詞を並べただけみたいな。そう聞こえるのはその前後が全く書かれていないから、繋がっていないから、だからものすごく安っぽく見えた。せっかくのみなみの見せ場なのに!つうかヒロインなのに!(握りこぶし)一緒に出ているしげちゃんがいい仕事しているだけに、なんとも言えない借り物的な砂浬の台詞の数々が浮いているように思えました。ちなみに女子モードに入った花蓮の台詞もどこか借り物っぽく見えた。なんだ、恋する女が描けないのか?それって宝塚では致命的なんじゃないか?(素)(ってこれも前に言ったような)
 更にこれも前にも言いましたが児玉っちは児玉っちでいいもの持っているし、それが徐々に形になり始めているんじゃないかなぁと。というかこだまっちにしかない「何か」があるような気がしてしょうがない……やはりそれも児玉マジックか?


[龍星メモ:その他言いっぱなしメモ]

・どうしよう明石に恋しそうです。素敵だった、本当に素敵だった。隙あらば明石を探していた自分に驚いています。いい仕事でした。
・かけざん管理人としては柚梅に喰らいつくべきなんでしょうが、何故か私の中でウメアカシが熱いです。二人が斬り結んでいる姿を見て沸騰しました。
・安蘭けいさんに関しては本当に最近はもういじれなくなっているんですが、元ねつトウコ部として「ああ、鬼と呼ばれていた人のあの人が鬼と呼ばれている」「ああ、ケダモノと呼ばれていた人のあの人がケダモノと呼ばれている」と感慨深くなってしまいましたっていうのは口が裂けても言えません。
・しげちゃんが本当にイイ仕事していたなぁ(うっとり)。しかし鳴沙から見れば白い花をこっそり贈りつづける龍星とうわごとに龍星の名前を呼ぶ砂浬に対して「もういいからお前らはやくくっつけ(うんざり)」かもしれない(笑)。
・今回舞台機構がすごく良かったなぁと思うんですよ。、あの鏡と大階段みたいにしつらえた階段。あの階段があることで不思議な奥行きというか広さがでてきて、その向うに青空や星空や夕焼けが広がっているのを見ると、本当に中国大陸みたいだった(行った事無いけれど)(笑)。気になってチェックしたら、装置が女の人でした。装置助手も女性。へー(かんしん)。
・あと戦闘シーンがいちいちカッコよかったです。これも上手く舞台をつかっていて、一幕の宋国と金国の戦いで、階段中段に横にずらっとならんだ宋国兵士と、階段上段に横にずらっと並んだ金国兵士が対峙するところ、こちらに背を向けている宋国兵士がすっと持っていた盾を背にしたじゃないですか?あれにおお!となりました(わかりがたい)。なんだか後楽園の野劇でヒーローショーを見ていた頃を思い出しました(さらにわかりがたい)。太鼓をつかっているのもいい効果だったよなぁ。



 色々マシンガッって文句も言っていますが、最初に言ったようにすごく面白かったです。なんというかすごい高揚しました。その高揚は私の特撮好きな部分とか歴史物好きな部分(史実とは違うのは知っていますが、歴史的、なドラマではあったと思うので)がびこんびこん反応しているからかなぁと思いつつ、とにかく面白かった。同じような感覚をいつか味わったなぁと思ったら、実は「送られなかった手紙」なんですね(ええ?)。あの時も私の芝居好きな部分がびこんびこん反応していた訳です。平たく言うと、宝塚としてではなくて面白かったという事になるのですが。
 で、この「宝塚としてではない」というのは、出演者(ジェンヌ)個人によらないという事なのかなぁと思いました。○○ちゃんが出ているから面白い、××ちゃんのキャラクターが構築できるから面白い(いや後者はこの辺だけじゃないか?)(笑)というのではなくて、物語として舞台芸術として面白いと感じる事が実は「宝塚としてではない」なんじゃないかと。そう思うと、この龍星と同時上映(違)の全ツベルばらは「宝塚として」面白いんじゃないかと(少なくとも私にとっては)。単に星組担だからかもしれませんが、ベルばらにも龍星にも喰らいつけるわたくし六実、でもその着眼点は少し違う。そう思うと宝塚の楽しみ方って本当にいろいろあるんだなぁと思いました。いろいろあるから面白い、みんなちがってみんないい(みつおか!)(笑)。そんな事を思いました。


 ずっと「『龍星』私は何回観ればいいの?」と思っていたんですね。ちらほら聞こえてくる評判を聞いても結構評価分かれている感じで。正直な話、今回私の主食(主に観ている生徒さんたち)が全ツ組だったので、バウ組はそこまで喰らいつかないかなぁと。でも面白かった、すごい面白かった。これならリピートできる、つうかリピートしたらもっと違うものが見えてきそうだし、感想も違ってくるだろうなぁ。いや、最初は土曜にダブルできるチケを確保していたんですけれどね、それを捌いてまで全ツ北海道楽に行くわけですが、







 というわけで、全ツ北海道楽に乗り込みます(先生!ダメな大人がここにいます!)。
 とはいえ周り人には「やっぱり」な顔されたんで、こんなネタに仕込むことでもないかもしれないですが、自分的にはほんとダメな大人だなぁと思っています(でもいい笑顔)。更に小郷さんと函館デートもしてきます。すごい楽しみ。
 それでは、日曜日まで留守にします。ダメな大人のリアル旅日記はチェキ日記からどうぞ。


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