| 2004年12月23日(木) | ||
| ハニーでジンジャーでシナモンな君 | ||
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[テラリウム通信] 見切り発車でクリスマス企画発動しました。 ま、VDまでに終わればいっか!なイキオイで(それ全然イキオイないじゃん)(笑)。 いいんです、クリスマスは終わりじゃなくて始まりなんですよ(意味がわからん)。 ++++++++++ 星組さん観てきました。my楽です。 最後の観劇と思って見納めてきました。結果すごいイキオイで芝居が私の中で繋がっていきました。楊国忠だけでなく。どうしようウッカリ「酒井先生ありがとう!君がこんなにアラだらけの脚本を作ってくれたおかげで全部自分の妄想で都合のいいように補完できた!」と感謝するイキオイで(えええー!)。 本当に、今回は自分の妄想体質に感(以下略)。 お芝居もショーも観るべきものは観れたという気持ちでいっぱいです。観終わってすごく充足感がありました。星組さんはいつもいくら観ても観たりないと思っているのですが(貪欲な)、今回はすっきりと今年の観劇を終えることができました。まあ、ウッカリイキオイでサバキ待ちとか行ったとしてもそれはオプションという事で(さては行く気だな?)。 楽しかったです。本当に楽しかった。 というわけで本当ならここで天文部活動総決算ナパームスクエア的楊国忠フローチャート「これで君も楊国忠になれる」をすべきなのですが、その前に玄宗と楊貴妃についてのフローチャートを提出します。 いつもはセンターってあまり観ない人なんですが(そしてセンターにもやもやしない人なんですが)(笑)、今回は結構もやもやしていました。これもひとえに「ワタさんのお芝居」と「檀ちゃんのありがたいまでの美しさ」、そして「そこに喰らいつかざるを得ない脚本を出してきた酒井先生」によると思います。前者ふたつは誉め言葉、後者ひとつはけなしています(わかりにくい)。 バカみたいに長いですウザいです。 [俺的花舞う長安(妄想大全):玄宗と楊貴妃] 突然にココから伝書鳩返しなのですが、12/18のマシンガンタイトル(私の人形はよい人形)を見て「あやつり左近ですか?」とのツッコミを複数いただきました。すみません、私そのマンガ知らないんです(笑)。元ネタは童謡です。私も歌はしらないんですが、歌詞だけどこかで見て、覚えていたんだと思います。 ちなみにそのタイトルは、その日の観劇で玄宗と楊貴妃に感じたイメージからです(何故に)(まあそれはおいおい)。 皇帝は人に非ず。 貴妃は人に非ず。 新公日の日記でも書いたのですが、檀ちゃんの楊貴妃に「後宮に入ってから玄宗の愛を得なくては生きられない人形になってしまったひと」と書きました。そしてその後、ワタさんの玄宗に「人形であったはずの皇帝は楊貴妃に出会ってから人間になってしまったひと」というのを感じました。 人形というか「個を持たない」「意思を持たない」という意味合いにとらえてもらえればいいと思います。 このキーワードを捏造(そう、捏造ですから)してから、玄宗と楊貴妃に俄然喰らいつけるようになってしまいました。 その1:人形になってしまった楊貴妃の話。 玉環にとって、「後宮3000の美女達」ひいては「後宮に入る事」は皇帝の寵愛のみを頼りにする「人形」になってしまうという事だったんじゃないかと思っています。己を失う、意思を失う。事実、玉環は己の意思とはまったく関係なく後宮に入れられてしまう。だからこそ、後宮に入ることを拒んだ玉環。けれども運命は楊玉環を人形のように簡単に連れ去って行ってしまった。冒頭の玉環と楊貴妃が私の中で最後まで繋がらなかったのですが、太真として尼寺に入れられた時に、玉環の中である覚悟というか、生まれ変わりとも言える現象が起きたのではないかと思います。そういう「人形」となった覚悟を決めて、ここでは皇帝の愛を得なくては生きられないのだと懸命にもがく楊貴妃。そして後宮3000の美女の中を勝ち抜いてく楊貴妃。そこにはかつて思い描いていた「人形」という憐れさも哀しさも感じなかったのかもしれない。何よりも皇帝からの本当の愛を得ることが出来たのだから。けれどもその愛を得たが為に、愛だけでは足りない事に気付いてしまった楊貴妃。ここで生きていくのには、もっと多くのものを求めなくては。そんな女の(あるいは女達の)もがく様が後宮劇として見えてきます。 けれどもやはり貴妃は「人に非ず」。皇甫惟明の死を知って、高力士に「見ざる言わざる聞かざる」と諭されて、楊貴妃はやはり自分が「人形」に過ぎなかったのだと知る。「皇甫惟明の死を『聞いて』」「楊国忠の中にその真実を『見て』」「何かを『言おうとする』」。それがすべて許されない存在、貴妃。その後、安禄山に襲われて、安禄山(女をモノのように扱う)にまるで人形のようにいとも簡単にもてあそばれてしまう己の存在。最初に皇帝に連れ去られた時のように、「人形」である自分の運命は誰かの手によって操られる。そこに己の意思はない。恐怖、そして真実。そんな楊貴妃に「よくやった、それでこそ私の貴妃だ」と褒め称える玄宗。貴妃であることを、人形であることを守った事を誇りに思うと言う玄宗。 やはり、私は人形にしか過ぎないのだ。 楊貴妃はこの時点ですでに、安禄山による玄宗皇帝の失脚、ひいては自分の死を悟っていたような気がするんです。だからこそ、すべてを失うと知ったからこそ「何もいらない、玄宗皇帝との平和がほしい」と言う。もはやそれがかなわないと知りながら。何故なら自分は人形にすぎないから、意思のない人形だから。 けれども玄宗はこの時点ではまだ自分の破滅の運命を知らない、それどころか本気で「2人だけの蓬莱宮」が立つと信じている。ならば自分はこのひとの破滅の時まで側にいよう。自分は人形だから、皇帝の愛を受けて生きてきた人形だから。 最期の時から天女として登場するまでの檀ちゃんが、本当にこの世のものとは思えないイキオイで神々しくて綺麗で、その姿はやはり人にあらざるものであるが故の神々しさで美しさだと思うのです。人形であった楊貴妃がその器を失った(死んだ)時、そこへ残ったのは玄宗への「想い」。皇帝でも貴妃でもなく、ただそれだけの「想い」。……そう思ったらすごく泣けてきましたってむっさんSSするなら他所で。 その2:人間になってしまった玄宗皇帝の話。 かたや玄宗は人形から人間になってしまった人という解釈です。前半のワタさんというか玄宗がね、ほんとにこのバカ皇帝が!と毒づきたいイキオイで魅力が無くて。楊貴妃への興味も最初は愛情よりも先に権力を振りかざすだけのもの。そういう中身のないからっぽな人間、いや皇帝という器の人形に見えたのです。けれども玄宗は玉環に出会ってから変わった。それまで何の疑問もなく皇帝という人形を演じていた玄宗は「意思」と「己」を持つようになった。けれども皇帝たるもの、「意思」も「己」も持ってはいけない。あえて「人形」に徹しなくてはいけない。それを「人形」と感じずに皇帝として生きてきた玄宗が「思い通りに生きている人間などいない」と知り、そして己の中に欠乏感を覚え、そしてその安らぎを楊貴妃の中に見出す。玄宗の言う「町の男たちと変わらない」はなんの比喩でもなく真実なんだと思います。そうして「人形」ではなくなった、つまり「皇帝」ではなくなった玄宗は安禄山にその座を奪われる。貴妃を失いたくないと言い張る玄宗は「皇帝」では無い。もっと言うと「人形」に徹する事ができなくなった時点で、もはや玄宗は皇帝ではないんじゃないだろうか。 貴妃を失って「わたしは皇帝であったが為に貴妃を失った」と歌いますが、「皇帝であった」からではなく「皇帝ではなくなった(人間になった)」から貴妃を失ったんだと思います。一人の女に、恋に溺れた権力者。憐れであり、哀れである。けれども冒頭の頃よりそれがよっぽど魅力的で、心惹かれます。貴妃に未練たらしくすがるその様も、自分で自分の責任が取れなかったその愚かさも、それがすべて哀しくいとおしい。 今日見たワタさんの演技が本当によくて、すごい引き込まれました。 人間から人形(貴妃)に、人形(皇帝)から人間に。 そんな2人が人間として交錯できたのが清明節の祭の時だと思っています。人間と人間、男と女。楊貴妃を奪った玄宗と、玄宗に奪われた楊貴妃に真の愛情が通い合うのはこの清明節以降のようにも思えます。そしてこの2人が人間として交錯できるのはここだけのような気もします。最後のシーンは、人間としてではなく魂としての交錯。人間と人形を行き来した男と女は、その器を失ってから、再び合い間見える事が出来た。自己レスながら冒頭、そしてラストの玄宗を「不老不死の薬の為に永遠の命を得た人にあらざる者」と定義すると、更に俺的にぐっときます。ってむっさんSSするならよーそーでー!(両手メガホン) という事を考えていたので、観劇中に睡魔に襲われることもほとんどなかったです(そりゃそうだろう)。 上記を踏まえて私の中では楊国忠フローチャートにつながります。最高に捏造で力技で埋めていっていますが、まあ、むっさんだし。本人的にはこれで一応完結しているので、気にせずに放っておいてやってください。 [俺的ドルチェヴィータ:リアルト橋よりお届けします] まだ話をするのか。 いや今日のうちに言っておかないと言い損ないそうで。 ロマンチカ総論、というかリアルト橋の話を。 舞台全体に横たわるリアルト橋。これがものすごくこのショーの世界観を象徴していると思いました。 ショー全体がこちら(ワタさんがいる側)とあちら(ディアボロがいる側)の二重構造になっていると思うのですが、その二重構造の境目には「水面」というもう一つの世界があると思います。どちらでもあり、どちらでもない。 最初にそれを感じたのは、青の洞窟後日談で、少女が見つかってその両親が安心してリアルト橋を渡っていきます。ふと、今見えている橋を渡っている人は、実際に見えているもの?それとも橋を渡っている人が映っている水面を見ているの?……気付いた時にはぞっとしました。どちらでもあるようで、どちらでもないようで、そんな私の思惑をあざ笑うように、二重構造になったリアルト橋(奥の屋根がある部分)では道化師やらコロンビーヌやらがうごめいている。あちら側とこちら側、生と死、現実とまぼろし、陸と海、そうした二重構造の境目に水面があり、そこには橋がかかっている、そこには橋が映っている。歌詞でも歌っていると言えばそれまでなんですが(笑)。 水面に映っているのは誰ですか?水面に映っているのはいつですか?それはほんとうに私ですか? ……そしてリアルト橋を渡っていく人々、人にあらざるもの、どちらでもありどちらでもないもの……うわー、やられたーと一人感じ入ってしまった訳です。 ついでに。白い衣装でリアルト橋を渡っていくかのちか。あれがまさに私には「実体のない水面に映っているもの」に見えます。向こう側に行ってしまった。今、確かにそこにいたのに、今だってそこにいるように見えるのに、かのひとは彼岸へゆく……。最後の思いを伝えるように、彼岸からこちらへ、水面にたゆたうその想いは、確かにそこにあるものでってむっさんポエムをするなら一人でやってください。 さらについでに、ここの場面。私の中でようやく判定が出ました。 かのちかとケロさんは兄妹。生まれてからずっと共に生きてきた、そこに一緒にいた半身。その半身を奪われたケロさんの目の前に現われたのは、水面に映る自分自身、水面にうつるディアボロ、どちらでもありどちらでもない。互いの半身であり、互いの半身ではない。この2人がシンクロして踊っているのを見てそう思いました。そして互いの手を握ってすれ違う時、こちらとあちらが入れ替わったのだと思っています。男はディアボロがいた側へ、ディアボロは男がいた側で。理由も何もない、どちらが望んだわけでもない。ただ、水面を見ればそこに自分が、互いがいるのは変わらないから、もしかしたら、入れ替わってはいないのかもしれない。そこにいるのかもしれない、そこにいないのかもしれない。 すべての水面がすべての入り口。そうやってゆらめきたゆたう、そんなショーだったと思っています。 本日のミキオさんのささやきは「どうしたい?」でした(身もだえ)。 あと唐突なんですが真飛さんのテーマソングに「鳥の詩」をあげたくなりました。自分用メモとして書いておきます。 |
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