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2023年05月18日(木) 生きると言う詩を逆に読むと

私は谷川俊太郎さんの「生きる」と言う詩が好きです。特にこの冒頭部分の「生きているということ いま生きているということ それはのどがかわくということ 木もれ陽がまぶしいということ ふっと或るメロディを思い出すということ くしゃみすること あなたと手をつなぐこと 生きているということ」が好きです。私が20代の頃に見たTV番組で目の見えない方が出ていて、その方がこの詩を読んで「僕は目が見えないけれど、のどがかわく事が出来る、木漏れ日を温かく感じる事が出来る、ふっと或るメロディを思い出す事が出来る、くしゃみをする事が出来る、好きなあなたと手を繋ぐ事が出来る。だから僕は生きていると言う事を感じる事が出来る。生きていて楽しい」そして逆に「生きていないということ いま生きていないということ それはのどがかわくことが出来ないということ 木漏れ日をまぶしいと感じる事が出来ないということ ふっと或るメロディを思い出す事が出来ないということ くしゃみをする事が出来ないということ あなたと手を繋ぐ事が出来ないということ」とその詩を読みました。その方は目が見えないので何処にいても真暗なのだけれど、外に出れば風が気持ち良かったり、そこに行けば誰かと話せたりするので、目が見えなくても何処にいても同じではないと言っていました。そして先ほどの詩のような事を感じる事が出来るから生きていて楽しいと言っていました。そしてもし死んでしまったら、それを感じる事は出来ないんだよと言っていました。私はその時にどんなに苦しくても生きていれば楽しい事を見つける事が出来ると思えるようになりました。とはいえ自分で命を絶つ人はそれだけの辛さ苦しさがあったのですし、死んだ人を否定出来るのはそれを経験した人だと思うので、いま生きている人には否定は出来ないのだろうとも思います。でもやっぱり生きていれば美味しいビールも飲めるし、音楽も聞けるし、子供達の喧嘩の声も聞く事が出来るし、妻が子供達を怒っている声も聞く事が出来るし、ラーメン二郎も食べれるし、ワンピースも読めるしです。それを人がみんな楽しいと思うかは分からないけれど、少なくともそれを出来なくなる事は寂しい事だと私は思います。


kanno

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