「静かな大地」を遠く離れて
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2009年12月12日(土) 蒼いお尻のぼくときみ。

あるきっかけがあって、この本をやっと読んだ。刊行後まもなく買ってはいたのだが、何かその頃の
自分の波長では太刀打ち出来ないものを感じていたのか、長らく書棚で順番待ちになっていたのだ。

■磯貝日月『蒼いお尻のぼくときみ。「カナダ極北のイヌイット 内なる心の旅」』清水弘文堂書房

まる8年も前、2001年12月2日(と11月27日)に言及した『ヌナブト』の、あの磯貝日月氏
の2007年刊行の最新の著書。当時の「静かな大地を遠く離れて」の軽薄なノリ紹介している文章を
採録しておこう。 http://www.enpitu.ne.jp/usr2/bin/day?id=25026&pg=20011202

■磯貝日月『ヌナブト イヌイットの国その日その日 テーマ探しの旅』清水弘文堂書房

 先日ここで紹介した本。分厚いのだが結構軽い感覚で読み進められる。

 著者の若さと、旅の途中で書いたというライブ感覚ゆえか。

 これは面白い。そして大事な仕事。魅力的なテーマ。

 ウェブで発表されたものの出版化本を読むような感じもある(実際はさにあらず)。

 彼は家系といい、環境といい、言ってみれば“北極圏フィールドワークのサラブレッド”、

 “生まれついての筋金入りフィールドワーカー”なのだけれど(<ご本人は厭がるかな)

 「電波少年」の企画ものの旅日記でも読むつもりで、ぜひ手にとってみて欲しい。

 「寒いのは勘弁!」という方でも、「静かな大地」を読み星野道夫本を読んでいる方なら

 彼が若くして自分のフィールドに見定めた“カナダ・ヌナブト準州”には関心を惹かれず

 にいられないはずだ。なによりこの活きのいい、生まれたてのフィールドワーカーの仕事

 を“先物買い”する楽しみも味わえる。瑞々しい極上の青春記としても読める。

 清新な“テーマ探しの旅”の行き着くところ、何と爽快なことか!

 “未来の巨匠のアーリー・デイズ”をお楽しみあれ♪


当時の自分の文章の跳ね具合はさておきつつも、『ヌナブト』と『蒼いお尻のぼくときみ。』の間には
重く横たわる質感の違いがある。音楽のジャンルで言えば『ヌナブト』がネオ・アコースティックなら
『蒼いお尻のぼくときみ。』にはブルースのような魂の震えと苦みがある。青年は大人になったのだ。

刊行から2年も経たこの本に言及するのは、懐古趣味や下手な批評風の文章を書きたいためではない。
著者の磯貝氏の文章に潜む、“追体験させる力”に感嘆させられたことをここに記しておきたいからだ。

「先住民族の共同体の内部に深く参与した優秀なフィールドワーカーの手際の良い仕事」という評価
の仕方には収まらない、彼の体感したものをストレートに読む側の深いところに届ける文体と構成で、
観察者が当事者にならざるを得ない、なりきることもまた出来ない、その境界に立つ息苦しささえも
追体験させてしまう物語(あえてそう呼ぼう)なのだ。こう言うと深刻一辺倒の本のように聞こえるが
語り口はあくまで軽く『ヌナブト』の口吻を残している。ニュー・ジャーナリズム風というのだろうか
自らを主人公とした一人称で語られる小説風の描写も多い。それが先住民族の抱える世界共通の重い
現実を、客観的な「社会問題」として捉えてしまうことを読者に許さない、物語の力となっている。

最終章の前の「岩場の陰」という静かなクライマックスとも言えるくだりは、なんともやるせない、
極北の夏の終わりの雪の情景を描いて、とりわけ秀逸である。というか正直、この章でぶっ飛んだ。
今どきのフィクションの短編小説に、これに匹敵するものを探しうるのか疑わしいくらいだと思う。

この本を読み終えた数日後、僕は1999年に「静かな大地を遠く離れて」以来もっとも長い日数で
彼の地に滞在すべく東京を後にした。しかも1995年以来の訪問となる日本最北端の町。この本の
表紙ほどの氷雪ではないけれど見渡す限り一面の“白”の中に身を置くのは懐かしい感覚だった。

冒頭に書いた「あるきっかけ」について最後に書いておこう。この秋この地上世界にやってきた子に
“ヒヅキ”と名付けた、というカップルからの報せが来たのだ。字は磯貝氏とはちがって“陽月”と書く。
ヒヅキ君、この世界はいろいろシヴィアーなこともあるけれど、けっこう楽しいところだよ。


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