「静かな大地」を遠く離れて
DiaryINDEXpastwill


2006年08月13日(日) 喪失の彼方へ

いつかも書いたけれど、日本の8月は生命溢れる夏というよりも、白い死の季節だ。
お盆の習俗からの連想なのか昭和の記憶による刷り込みなのか、あるいは烈しい太陽の過剰さ故か。
この印象は子供のころからついてまわっている。
1996年の夏、鎮魂の季節としての8月をさらに強く決定づけたのが星野道夫の凶報だった。
あれから10年。のちに『旅をした人』にまとめられた文章を、何かに縋りつくように貪り読んだ
切実さからは、ずいぶん遠く離れている。現代を暮らす鬱屈も悦楽も、およそ精緻な幻影の中に
取り込まれていることには変わりがない。

■池澤夏樹「星野道夫の十年」より
 ある時期、彼の人気のあまりの高さをぼくは危惧した。どういうことになっているのだろうと
 考え込んだ。今の文明に刃を突きつける強烈な思想は手際よく省かれ、美しい風景と可愛い動物
 だけが抽出されて消費される。星野の肉体はヘッド・スープにはならず、カレンダーと絵はがき
 に加工されて、歯ごたえのない安直な食べ物に堕してしまう。
 (中略)
 人は自然を見ず、いよいよ人工的・自閉的な空間にこもって、消費ばかりに明け暮れている。
 だからこそ彼のメッセージは求められるのかもしれない。決して罪から逃れられない人間に
 こそキリストの言葉が働きかけるように。

そんな中でもひとりひとりの人間が、生まれて生きて死んでいく、その不可逆的な過程こそは
決して絵空事ではありえない。池澤氏が星野道夫と別れて十年、その精神宇宙を巡っていた重要な
星々の中でも、とりわけ強い輝きを放っていた巨きな星たちを見送ってきた。
これだけの名前が並ぶと、あらためて眩暈をおぼえる。
この十年とは、そういう歳月であったのだ。

星野道夫 1996年8月8日
須賀敦子 1998年3月20日
辻邦生 1999年7月29日
J・マイヨール 2001年12月23日
日野啓三 2002年10月14日
原條あき子 2003年6月9日
萱野茂 2006年5月6日
米原万理 2006年5月25日

見送る人。見届ける人。そういう役回りが板に付いているのが気の毒に思えてくる。
一般の読者の頭に浮かぶ著名な人物の名前だけでも、これだけ並ぶのだ。
いくつの弔辞をよみ、いくつの追悼文を書いてこられたことだろう。
8月12日、東京の日本科学未来館で開かれた催しでの講演会で星野道夫の記憶を語る池澤氏の
姿は、これまでに見たことがないくらい淋しそうにみえた。気のせいであればいいけれど。
いままで依拠してこられた狩猟民の死生観に加え、イエス・キリストの喩えを補助線として
星野道夫の死の「意味」を語ろうとされたことに、喪失感の大きさをあらためて想う。

現代における一人の人間の死ということについて、正面から取り組んだ作品として初期の短編、
「骨は珊瑚、眼は真珠」がある。死んだ夫の主観で語られる、妻の“喪の仕事”の日々の物語。
1990年に書かれたものだが、今年の4月に配信された「異国の客」に御自身の言及があったこと
を見ても、思い入れの深い作品であることが察せられる。

■「異国の客」045より
 近所の老婦人にお茶に呼ばれた。この人をC夫人と呼ぼう。ぼくより10歳くらい年上だろうか。
 上品で知的な、ある意味でこの町のフランス人の典型のような方で、これまでも時おり話をしたことは
 あるけれど、家に呼ばれたのは初めて。親しくなったきっかけは去年、長らく患っていた夫を亡くして
 落胆している彼女に、あるいは慰めとなるかと遠慮がちに自著の仏訳を進呈したことだった。
 それが夫を亡くした妻の話で、しかも彼女の信じるカトリックとはまったく異なる死生観に基づいている。  
 カトリックでは死は天国に召されることだから、あまり否定的には考えない。
 あるいは、その時が来るまで考えてはいけないことであって、だから自分は長く病床にあった夫との死別
 を覚悟はしていたものの、これほど辛いことだとは思っていなかった。その悲嘆を「骨は珊瑚、眼は真珠」
 というぼくの短篇はあるところまで慰めてくれた、という感想だった。プレゼントは役に立ったらしい。

12日の講演を聞きながら、たびたび「骨は珊瑚、眼は真珠」の中のフレーズを思い出していた。
そしてボブ・サム氏の言葉と会場全体を包んだメガスターの星たちは、「まずもろともにかがやく
宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」という宮澤賢治の希求を体感するかのような光だった。
あれは、その場で終わる体験ではなく、長く反芻することになるであろう儀式のようなものだった。
神話の末裔としての物語が、人の歴史に挑む気概を失わない限り、精神の敗北はないのだ。
汝、魂を語ることを恐れるなかれ。
この十年に地上を去った、言葉の聖者とも言うべき人々の列が、そう告げているようだ。

思えばずっと、境界の“向こう側”へ行く者たちを此岸にとどまり見届ける者の視点で描きつづけてきた
池澤氏が、この人々の列に見守られながら何を書くのか。同時代を伴走できる幸福を噛みしめて行こう。



時風 |MAILHomePage