「静かな大地」を遠く離れて
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2002年04月26日(金) 地の記憶をあるく

場所の記憶、地霊=ゲニウス・ロキ、地理的想像力、そういう琴線が僕にはある。
「転校生」であったせいかどうか、幼い頃から場所への感性、関心を培ってきた。
栗本慎一郎師の『都市は、発狂する。』に触れて書いたごとく、都市論とか空間論
は身体的に気になる。あまり建築理論めいたお勉強的都市論本より、生理感覚的な
ものにこだわったものに興味がある。坂口安吾の『安吾史譚』『安吾新日本地理』
などはその代表的なものといえるかもしれない。司馬遼太郎『街道をゆく』もいい
けれど、僕の好みから言えば、ときに生真面目さが過ぎて退屈になる嫌いがある。

例によって未読ながら、惚れ惚れするほどに僕の嗜好に合ったシリーズが刊行中だ。
■松本健一『地の記憶を歩く』(中央公論新社)

すでに「出雲・近江篇」「平戸・長崎篇」が出ていたが、最近「盛岡・山陽道篇」
が出ているのを見てたまらず三冊とも買ってしまった。松本健一氏の仕事を深くは
知らない。日本の近代の根源を執拗に掘り進むと、近世の硬質な層に当たる、その
接触面の手触りを確かめようとしている人である、というのが僕の松本氏に対する
勝手なイメージなのだが、如何せんハードに思想的な著作が多いので、比較的軽い
ものを盗み読むくらいしかして来なかった。わりと最近出た佐久間象山の評伝もの
なども興味はあるのだけれど少々大部なので手を出しかねていた、というところだ。

『地の記憶を歩く』は『街道をゆく』の本歌取り、松本健一版といっていいだろう。
通読するのももどかしく、いろんな頁をめくってみるにつけ、目を惹く要素だらけ。
「思想」を対象にして物事を腑分けしながら脈絡をつけて書くのも読むのも難儀な
ことだが、そこに「地の記憶」というコンセプトを持ち込むことによって一筆書き
で以て著者の思索の道筋を追体験することが出来る。現代も目や足で確かめること
の出来る実在としての土地の深層に、過去の人々の思想を透かし見ることが出来る。
そして何より場所や人物への着眼の仕方がラディカルで良質な知的興奮を喚起する。

日本の近代と近世は、これまで不連続性において認識されることの方が多かったの
だろうが、むしろその連続性、近現代の日本の人々の精神の基底に在る、近世以前
の思想、行動様式の影響をもっとクール見つめ直す必要があるのではないかと思う。
江戸期と明治以後を一貫して語ることの出来るジャパノロジストは、貴重な存在だ。

拙速で感情的なナショナリズムを歴史教育に持ち込むよりも先に出来ることはある。
“場所”と“記憶”と“身体”がキーワードだ。

題:307話 チセを焼く7
画:磁石
話:その舌先で和人を欺いてきたのか

題:308話 チセを焼く8
画:洗濯鋏
話:口裏を合わせておかないとといつかしっぺ返しが来る

題:309話 チセを焼く9
画:コンパス
話:それを私は神々の思いと受け止めることにした

題:310話 チセを焼く10
画:ネジ
話:これで落着すれば安いものだと思う


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