「静かな大地」を遠く離れて
DiaryINDEXpastwill


2002年02月26日(火) 文脈クロニクル

題:251話 栄える遠別11
画:硬貨
話:しかし、北海道全体では孵化事業は着実に伸びていった

題:252話 栄える遠別12
画:栄螺の蓋
話:いや、むしろ潔いのだろう

日本の過去の時代を、どう物語的文脈をつけて受容するか、ということに関して
今の日本の多くの人々が、ひどくナイーブなのではないか、と思い続けている。
「静かな大地」は、御大がご自分の家系の一つの流れを核にしながら、北海道、
ひいては近代日本の“所業”に対する、自分なりの文脈を探りつつある小説だ。
こういう試みが上手く結実して有無を言わせぬ力を発してくれると良いのだが。

とりあえずマス・イメージにおいて、よく知られていることになっている時代に
いわゆる「戦国時代」と「幕末」がある。時代を遡れば「平家物語」「太平記」
の時代も、もっとポピュラーだったのだろうけど。他のマイナーな時代に大変な
ことが無かったわけではない。蒙古襲来の時代も壬申の乱や平安遷都の時代も、
“激動”と呼ぶにふさわしい事件が頻発した興味深い時代は、山のようにある。

にもかかわらず、ある時期に特定の時代がポピュラーになって、スタンダードな
歴史意識にまでなっているかのようにとらえられる。それも、ある強力な磁場を
形成して、その文脈に沿わない事件や人物を捨象してしまう。これに抵抗するの
には、極めて高度で強い物語力を要する。例えば佐々木譲さんの『武揚伝』など
を思い浮かべていただければ、そういう仕事の凄さと難しさがよく分かるだろう。

だいたい「戦国時代」と呼ばれている年表上の時代を「戦国時代」と呼ぶことが
既に、ある文脈への依拠を無条件で受け入れていることがまず問題の核心かも。
「幕末」とくれば“日本の夜明け”だという大前提を、呼称自体が含んでいる。
そうした認識が流布したこと自体が、歴史的には極々最近のことだったりする、
というのは容易に想像が着く話。司馬遼太郎氏が果たした役割も大きいはずだ。

信長も坂本龍馬も、今日のポピュラリティを得たのは最近の話で、時代が違えば
評価は大きく異なり、下手をすると誰にも名前さえ知られていないかもしれない。
反対に、今われわれが聞いたこともないような人物の名が、歴史上の偉大な人物
として取り上げられているというのは、実にあり得る話である。『武揚伝』の力
で別の文脈の見えかけた「幕末」のほうに、「戦国」よりも面白味を感じている。

とはいえ「戦国時代」って一体なにが面白かったんだっけ?…という疑問を解消
する糸口になるような本は在る。僕の趣味で言えば、隆慶一郎『影武者徳川家康』
半村良『産霊山秘録』のような伝奇ロマン色の強いものを、先にまず司馬遼太郎
が書いた同時代を扱った作品を「スタンダード」として読んでおいた後に読むと
なかなかに味わい深い。両方の面白さが相乗効果をなして、立体的に見えてくる。

本を読む快楽、ということでは、こうした時代小説の読み方に勝る体験は、そうは
ない。そうは思いつつも、時間の贅沢さの問題として、なかなか実行には至らない。
この際、長年の宿題になっていて、いい加減片づけたいと思っている作品群を一気
に読み耽ることが出来ないか、と目論んでいる。遠藤周作『反逆』(講談社文庫)
藤沢周平『密謀』(新潮文庫)、安部龍太郎『関ヶ原連判状』(新潮文庫)、
白石一郎『航海者』(幻冬舎文庫)、半村良『講談 大久保長安』(光文社文庫)。

しかし依然として、あの時代の物語化よりも、あるいは「幕末」よりも関心が深い
のは、昭和史だったりする。文脈の見つけ難さも格別だが…。今日は2月26日。
荒唐無稽でもなんでも文脈をつけるというのは力業で、荒俣御大の『帝都物語』は
狭義の小説としてはともかく、その意味では第一級の成果なのだ。続編が楽しみ。


時風 |MAILHomePage