「静かな大地」を遠く離れて
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2001年06月22日(金) 語りと眠りの交錯する宇宙

題:11話 煙の匂い11
画:胡麻
話:「話」の多面体としての記憶空間

幸い北海道にまつわる胡麻の想い出は、特にない(笑)
しかしこの博物誌のような挿し画シリーズ、どこまで続くのかな。
今日はNHKのドラマ『お登勢』が、最終回を迎えてました。
予想通り、静内へ向かう船の中の描写までで終わりでした(^^;

今日のポイントは、語りと眠りの交錯。
『マシアス・ギリの失脚』や「眠る女」(『骨は珊瑚、眼は真珠』所収)を
想起していただければ、御大のヴィジョンがわかるだろう。
これはもう“周到な戦略”とかではなくて、好きなのだ、としか言えない。
だから僕らも「またやってる」ではなく、「待ってました」と読むべきだろう。
ただ「事実」、とりわけ「語られた事実」というものへの御大の向き合い方に
少し過去作と比べて自信、なのか覚悟なのか、骨太さなのか、何か力強いものが
加わっているような気がする。とはいっても、連載ではまだ語りの枠組みが準備
されつつあるだけで、“具”にあたる部分は見えてきてはいないんだけど、
すでににそんな印象を得ている。
これはなんなのだろう?
あまりにベタに「時代小説がはじまるのかな?」と思わせるような叙述ゆえに
逆に「語り」の構造への視線が強く感じられたりするのである。面白いものだ。

眠り。意識の途絶、記憶の限界。トランスな夢見のアナザー意識への入り口。
睡眠そのものが脳の機能の問題として、一面「記憶」との関係があるらしい。
語り部の物語を囲炉裏の側で、あるいはイグルーの中の長い夜に、聞くこと。
そういう環境で培われる、「話」の集積体としての世界像。
「あることないこと」とつきあう「お話リテラシー」みたいなものが高い人は
物理的に追いつめられることがあっても土壇場で精神的に強いのではないか?
それもソリッドに強いのではなく、弱さも甘さも綯い交ぜになった大胆不適さ。
とことんシニカルだったりアイロニカルだったりする訓練が出来ていれば、
逆に平気でベタベタにエモーショナルなツボにハマることも自在だ。

舞台芝居などでも、「笑い」と「泣き」の振れ幅は比例する、という。
ライブの演劇は日によって出来不出来がある。
役者と観客が作り出す空気は回によって微妙に違う。
しかし言えるのは、笑いどころで大きな笑いが来た回は間違いなく「泣き」の
場面で沢山の観客の嗚咽の気配が感じ取れるという。
おそらく人間の感情などというのはダイナモの回転みたいなもので、
回転数が上がっていれば、あとは喜怒哀楽どちらにでも転がるものなのだ。
これはある俳優さんが、自ら演出を手がけている作品の稽古場で聞いたことだ。

喜怒哀楽の振れ幅を大きく、伸びやかに生きられたら・・・という想いは
少々ひねくれた根性の持ち主でも、心の底に飼っている想いではないか?
しかし言ってみれば「心の運動神経」の鈍さに、自分で苛々してしまう人が
多いのも事実かもしれない。
これは以前から結構本気で思うのだけれど、初等から中等教育のメソッドの中に
もっと「演劇的知」をよく練られた形で盛り込めないものだろうか?
学校演劇みたいなのを全員が強制的にやらされる、みたいなことでは絶対なく(^^;
演劇には「身体」「ことば」「対人交渉」の要素が入っている。
ヒトは微妙にロールプレイングする動物で、自分の「立ち位置」を測ったり、
他者に声でコトバを投げたり受け取ったり、そういう基礎トレーニングは必要だ。

演劇にあふれたアーティスティックな世の中を夢想しているのではなく、
単純に処方箋として「有効」だ、と思うのだ。
社会的不適応者の群れが有形無形の形で世間にもたらす「コスト」を事前の
然るべき「投資」で軽減できるのならば、やる価値はあるのではないか?

メソッドの着想源は、一部はシュタイナー学校だったり、小劇場の劇団なんかで
行われているトレーニングだったり。ETVの「課外授業ようこそ先生」で、
野田秀樹氏がやっていた、身体を使った遊びみたいなのをイメージしている。
#にしても「桜の森の満開の下」は見れないねぇ、混みすぎだし。

筋肉を動かして、声を出して、そして感情の限りを尽くし、ただの空間に
物語宇宙を現出させる「役者」という人種は、見ているだけで元気になる。
ジャンルとしての演劇を持ち上げたいのではなく、演劇のメソッドは「使える」
と思うのだ。「語り」は「騙り」、ありとあらゆる手管を使った大嘘である。

そんなことを、山口昌男現札幌大学学長あたりがウソぶいて「社会的実績」を
あげてくれちゃったりしないものだろうか?(笑)
この文化人類学の泰斗の仕事は図書館か書店へ行けばいくらも読めるのだが、
北海道との関連でジャーナルな関心を喚起するハンディな本を薦めるとしたら、
『独断的大学論 面白くなければ大学ではない!』(ジーオー企画出版)が
ツルっと読めて面白い。マイナーな版元だし、「大学論」と書名をつけることで
読者を限定してしまっている気がするが、なかなか内容豊富で愉しい本である。
御大の『沖縄式風力発言』と併せ読むと「周縁」からニッポンを逆照射できる。
(願わくば札幌大学へ行ってからの仕掛けごとや、北海道と日本の文化の関係の
彼ならではの考察を、広い関心と購買層を見込んだ新書でまとめてほしい 爆)

その山口昌男氏が仕掛けた沖縄関連の企画が明日、札幌で開かれるらしい。
6月23日。
「命どぅ宝・・・、命がなによりも大切っていう意味サァ」、
『ちゅらさん』の平良とみさんの台詞だ。
上で述べてきた小理屈みたいなものはすべて超えて、平良とみさんの存在を
思えば何も疑問はあるまい。『ちゅらさん』は、おばぁの語りによって
不思議に重層的な時間を獲得している。そして感情の振れ幅が大きくなっても
「まぁいいか」と身を任せることの快楽へと誘う。
あの番組は「ドラマ」とは銘打っていない。ドラマならぬ連続テレビ小説、
すなわち「語りもの」なのだ。
来週の『ちゅらさん』は「第13週 おばぁの秘密」というサブタイトルで、
ついに東京へ行くおばぁの活躍する顛末を描く「おばぁウィーク」になる。


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