「静かな大地」を遠く離れて
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2001年06月16日(土) 新聞連載小説ト云フコト

題:5話 煙の匂い5
画:砂糖
話:淡路と徳島の大人たちの事情・幕末編

今日は砂糖(笑)
川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)でも読んで、
その戦略商品ぶり、世界史への影響の大きさをふりかえるも良し。
琉球のサトウキビが薩摩の回天資金に化けたりもしたのかな?

開拓地の物語でこうもエレメンタルな物資シリーズが続くと、
僕なんかは十勝の画家・神田日勝(1937〜1970)を想起します。
帯広の北の鹿追町に神田日勝記念館というのがあります。
開拓地で“物そのもの”の手触りを確かめるように描いた画風が
なんとなく今の山本容子さんのアプローチとつながったり。
そのうち馬とか牛とかチセとか熊とか描かれるのでしょうかね。

さてまだ物語は導入部、ますます船山馨『お登勢』(角川文庫)に
近づいていく世界。ドラマは次週金曜日が最終回、北海道静内へ
旅立つシーンはイメージショットで終わるのかな(笑)
原作は後半まるごと北海道が舞台になってるけど。

土地の物語。時代小説。新聞連載。となれば御大の頭には司馬遼太郎
の語り芸があるはず。前回の新聞連載『すばらしい新世界』では、
E-mailを仕掛けに使ったり、っていうかむしろE-mail時代の夫婦間
コミュニケーションのお話だったという話もあるがそれはおくとして、
環境やボランティアなど時事ネタ情報を食べやすい一口サイズに料理
していて、挿し画も自分でフォトショップで結構凝って作っていたり、
“新聞連載小説ト云フコト”をかなり生真面目に意識して作っていた。

実はハードカバー本買ってないんです、僕、きっと読まないから(笑)
挿し画とともにT-Time形式で収録されたCD-ROM版がインパラさん
から出るんでしょ?いろんな関連サイトへのハイパーリンクもついてて
この銀盤一枚あれば「すばらしい新世界」へ行ける!っていう・・・。
スミマセン、雑談してしまいました(^^;

新聞連載小説として、という話。
『すば新』の時に御大が言っていたのは有吉佐和子『複合汚染』が
新聞連載作品の一つの成功例、みたいなこと。
レイチェル・カーソンの『沈黙の春』を受けて、日本ではどうなって
いるのか・・・という興味を作者がグイグイと引っ張ってくれる。
しかし同じ環境問題を視野に入れるにしても時代も芸風も違いすぎる、
というのが御大の言い分だろう。
『複合汚染』、当然ながら情報的には1975年ごろの話だから古い
のだが、語り口が滅法面白いので、読んでみられてはいかがだろう?
いきなり代議士の選挙応援に行った話から始まる。
若き日の菅直人や青島幸男が登場したはず。石原慎太郎だっけ(^^;
とにかく、ぶっちゃけ方が並じゃない。
あれを読むと『すば新』も沖縄県知事選挙の太田昌秀前知事の陣営
内部の描写からはじめて欲しかった、とないものねだりしたくなる。
ともあれそれでも『すば新』は『複合汚染』に倣った情報型。
ほんとに「情報型」でやるのは自分ではなく村上龍氏の仕事だ、と
御大には言われそうだけど。

で今回長年の構想を形にするに当たってなにゆえ新聞連載という形
を選んだのかな、というのは少しある。
『Switch』誌のインタビューとか真面目に読めば話されてるかも
しれないけど、ひとまず出てくる作品を読みながら忖度していきたい。
で、話は司馬遼太郎に戻る。
『すば新』でも試みてはいたけど、司馬小説の新聞連載的強みは
作者がどんどん前面に出てきて雑談とか挿話とかできること、的な
ことを御大はどこかで話されていた。
この北海道開拓期を舞台にした物語は御大の仕事の系譜で言えば
『マシアス・ギリの失脚』のような路線になるのだろうし、
そうあって欲しい。だから単純ナラティブにはならないはずと予想。

「小説の公理として同じものを書くわけには行かない」とどこかで
書かれていたくらいだし、枠の中の思考実験として普遍的価値のある
物語でなければならないわけだから、作家さんの個人的事情を斟酌する
するのは邪道というもの。それは研究者か好事家の仕事だろう。
『すばる』誌の日野啓三さんとの対談も読んだ。
あの80年代トウキョウの「都市の感触」から遠い道のりを経て
「私はここにいます」という宣言にも似たものが例の「日本の根」発言
を裏で支えているのではないかと仮説してみる。気負いでもあるかも。
もっと悪いコトバなら「開き直り」。
今住んでおられる村の眺め、季節の巡り、そうしたものとのトータル
バランスは取れているのだろう。
『花を運ぶ妹』のラストのアジアへの言及も含めて「オリエンタリズム」
に関してあえて無防備に見えるもの言いをされるのは、「都市の感触」
からすっかり「オリエンタリズム」の対象となる側に立脚しおえた、
根を下ろした、という自信なのだろうか?・・・そうではあるまい。

今回はアイヌとの間のエッジが描かれるはず。
あるいはヒグマの生息に代表される列島の原自然と「開拓」という行為。
うーむ、なかなかに難物であります。

さて、そろそろご案内を差し上げた方もいらっしゃるのであらためて
僕が作家・池澤夏樹氏のファンとして何をしてきた人間か、簡単に。
まず挙げられるのは、意識的か“なりゆき”かは別にして池澤氏の
足跡を結構辿っているということ。ギリシアへも行きました。

今回舞台となり主題となる北海道には93年から2000年まで
住んでいましたし、氏の生まれた帯広や『静かな大地』の舞台となる
静内周辺には何度となく通いました。
ちょうど氏の畏友・故星野道夫氏の仕事が「動物写真」ジャンルから
大きく自然や文明論的なところへ展開を遂げ、96年にクリル湖で
亡くなられてから発刊された遺著群を読みながら、北海道の季節の巡り
を存分に味わうことが出来ました。

ヒグマの冬眠穴に潜ったり、サハリンに出かけたり、昆布漁師の老人
の船に乗り込んだり、カヌーや馬に乗ったり、イグルーに入ったり、
広葉樹林の遅い春を観察したり、どうにもこうにもイケザワ的ライフ
を送っていたのです。

99年の初めに読売新聞で始まった『すばらしい新世界』に呼応して
「池澤御嶽(イケザワウタキ)」というホームページを作りました。
そのころはピュアなファンだったのか、こんな文章↓書いてました(笑)

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池澤夏樹さんは、惑星探査機ボイジャーを「ヤーチャイカ」の中の娘さん、
そして故・星野道夫氏を形容する時の“たとえ”として使っています。
遠い世界へと飛んでいって、見えた光景を送信してくる愛しき「他者」、
・・・今も宇宙を飛んでいるボイジャーさえ愛しく思えてくるような、
温かさと切なさに満ちた比喩です。

翻って僕たち読者にとって池澤夏樹さんはどんな存在だろうか?
それで思いついたのが、ハッブル望遠鏡。
ボイジャーのように遥か遠くへ飛び出して行くこともなく、
日常という重力に支配されきってしまうこともない、
地球の衛星軌道上を巡りながら、大気に曇らされることのない
とびきり高性能のレンズで深宇宙を見つめつづけている・・・。

でもハッブル望遠鏡って故障したりしてなかなか稼働しなかったんだ
と思い出す。それじゃ、不適切で失礼な比喩かもしれない。
でも僕は最近ギリシアへ行ってみて“幸福のトラウマ”のことが
気分だけは想像できる気になっているので、
39歳まで処女小説を書かなかった池澤夏樹さんのことを
ハッブル望遠鏡に例えるのは、あながち外れてはいないのではないか、
と一人で楽しんでいます。
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・・・とまぁそんなわけで(?)北海道経験値は御大よりも幾分高いはず。
オキナワに関しては二度ばかり観光旅行に出かけただけで単なる沖縄料理
フリークです。「ちゅらさん」にはとっても詳しいですけど、ゆえあって。
坂本龍一氏も結構詳しいらしいですが、絶対負けません(笑)

あーあ、明日早起きできたら自転車で東京オペラシティーまで走って
「贋作・桜の森の満開の下」当日券のために並ぼうかと思ってたけど、
すっかり深夜になってしまった(^^;
また夏のキャラメルボックスまで芝居は見れないかもなぁ。

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