まめごはんつうしん
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| 2005年09月30日(金) |
流れた時を手繰り寄せる(転載) |
相変わらず、ふたりで事務所に置かれる機会があると、いろいろな話をします。 熱っぽいような気がする……のは、私だけだろうと思うんだけど。
ひょんなことから、事務局長さんが私に「初めて会った」ときの話、を聞くことになったんでした(..*) 。 いつをもってして初めて会った、とするのかはその人の記憶による、と思うのだけど、彼女が言っていたのは当時まめ子がまだ1歳9カ月だったときのこと。訳も分からず(あ、もちろん分かってないのは私がです)県庁への請願行動に加わる羽目になったときのこと、だったんでした。 ……え、ということは4年以上も前か! うわぁ。
あの時のあなたは髪がまだ長くて(*)、後ろで結わえてたんだよねー。 あの時、気がついたらハンドマイクでの(道行く人への)宣伝に加わってたからすごくびっくりしたんだけど
「あー、この子はなんか(あった出来事に対して)反応はしないんだけど、一緒についてきて行動はするんだ」
と思ったのが第一印象だったかな
と言われました…… (*)って言っても、セミロングくらいの長さだったんですけどね。ま、今はショートだから長かったで間違いはないのか。
うーん。反応しない、かー。今だって人見知りだし自己表現はうまくないし(そのあたりのことはもう、今は白日の下になってますが)、訳が分からなかったんだけど地域の人たち(つまり、知った顔の人)もいたのでとりあえずついていった、というのが真相だったかもしれません……そのことがどんな意味を持つのかなんて考えもしなかったし。反応しないんじゃなくてできないというかしようがなかったとも言えるんですけど(^ ^;)ゞ。 ただ、こっちが訳わかんなかったからって、参加されてしまった方はやはりびっくりだったようで
あの人誰???
という感じで、一目置かれることにはなったらしいんでした。
ところがその後、私はこの事件の直後に義母の介護(なんてほど偉いことはしてなかったんだけど)をすることを余儀なくされて、ここが市民運動体だということをきちんと理解して活動をするまでに、1年ほどのブランクがあきました。
その後「あの時の彼女はどうしてるの?」って聞いたら夫の母親を介護してて大変みたいだよ、って聞いて、そうなんだって……
でもよーく考えてみたら、そういう時ってふつう育児サークルなんかは辞めてしまうんだと思うんですけど、辞めてなかったわけですよね、私?
あ、そうだ!
今にして思えばそういうことを考えてた自分にびっくりなんですけど、子どもを口実にしてでも(外に)出る時間はほしかったんだと思うんですよ
…………(思ったより)ちゃんと深い考えを持ってたんじゃないの(^ ^;)
…………そうなんですか??? (笑) (ただ、自分で思っているよりも「ほしいものは譲らない」タイプなのかもしれない、という自覚が最近はあります……遠慮してばかり、というふうに自分でも思っていたけどそうじゃなかった、というか。)
ちなみに、そのころの私は当然「誰がどんな仕事をしているのか」なんてコトはまったくわかってなくて、事務局長さんを事務局長さんとして認識する(なんじゃそりゃ)……それこそ、私からみた「初めて会った」状態になるのはもっと後のことになります。それでも3年くらい前ですが。(どんな話をしたのかもよーっくに覚えてるんですが、ここでは書くことをはばかられます……ごめんなさいm(_"_)m 。) でも、私の中で「事務局長さんここにあり」という状態になる決定打を打たれるには、そこからさらに1年の月日を要したんでした(!)。 この3月まで通っていた保育園で、当時まめ子が特定のお友達から攻撃され続ける……という状態になるに至り、悩んでいたんでした。当の保育園はもちろん、いろいろな人に話を聞いてもらいましたが、実を言うと、別にそういう話をするつもりではなかった事務局長さんに言われたひとことが、一番「効いた」んです。
子どもっていうのはもらったものしか出せないんだから、その子は周りからそういう言葉しかもらってないのかもしれないよね。まめももさんもつらいだろうけれど、その子に笑顔で「なかよくしてあげてねー」って声、かけてあげられてる?
………… 「う(;゜゜)。」って思いました。あまりな表現だと思うけど、そうしか言いようがないほど。 ある意味それが、彼女に対して「おちた」瞬間だった(苦笑)。決して甘かったり優しかったりする言葉じゃない。けど、痛くても胸に「ずん」と落ちたんだもの、しょうがない。 で、その2カ月後の事務局入り要請だもん。計算してた訳じゃもちろんないと思うんだけど……そうなっちゃうともう断れないって。ねぇ。 (ちなみにまめ子自体もその後、保育園でのその一件は自力で乗り越えました。ただ、まめ子が乗り越えて園全体が解決、ではなく、ほかの子に攻撃の対象が移った(しかもさらにエスカレートして(−−;)。)がためにその後、煽りを喰らって園を替わらないとならない事態にまでこじらせてしまったんですが……悔しかったなぁ、あれは。)
で、その後の2年はホントに激動だった……けど、うんと中身の濃い2年だったなぁ、って、今となっては思うのです。泣いてる時間のほうが長かったとしても。 あの時……その、2年前の一件以来、少し痛みを伴う言葉の魔法を何度も何度もかけてもらいながら、なんとかやってきたのかな、と、思います。やっぱり、私がいつか、それをシェアできるところに立たなくちゃならないのかな、と思いながら。
でも、ヒトっていつどこでどんなふうに転ぶか判らない。 おそらく、その4年以上前の 「あ、あの子まめももさんっていうんだ」 の頃に今の状態を予測したヒトなんて皆無なんじゃないかと思うのです。事務局長さんだって「物事に対して反応はしないんだけど」と思っていた私が、よもや自分と一緒に事務局を支えるようになるなんて思ってなかったことでしょう……私だって申し訳ないくらいだそれ。私である必然性はどう考えてもなかったわけだし。でも、今ある現実はこうで。 ヒトはどこでどう出会うかわからないから。 日々を大切にしましょう、というお話でした。
うーん、最近こんなんばっかりじゃの(^ ^;)ゞ 。 -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
くどい話で申し訳なかったけど、私自身は実はこの話、書いてて楽しかったんです。年表というか時間の座標軸というか、そういうものを整理するのって意外におもしろい。 それで、私自身は「夫の母が他界してから事務局の仕事を受けるまでのおよそ1年半」のところの出来事が、割とごちゃごちゃになってるんだな、とも思いました。書くのに「まめつう」でいちいち確認したもの(^ ^;)ゞ 。でも、この1年半のあいだの「まめつう」って、結構書けてない……1カ月の記事がたったひとつ、それも数行なんて月もあった日には(苦笑)。
あと、おもしろいなと思ったのは「お互いが同じ時にひとめで意識した」訳じゃなかったということ(何それ、って言わないように)。別々の人生がある時に交わるにはそれなりのドラマがあったんだなぁ、と。 でも、それは何も対事務局長さん、だけではなくて、今私の周りにいる人たちみんなに言えることのような気がします。
こんな私に出会ってくれて、本当にありがとう。
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