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『キャンディ・キャンディ』と新谷かおる
2005年01月19日(水)

昭和の少女漫画読みが3人集まると、アンソニーかテリィで激論が交わされますが、私は断然テリィ派です。

こんにちは。新谷かおると少女漫画(いつシリーズ化したんだ)、第3回目は、いがらしゆみこ『キャンディ・キャンディ』です。
『キャンディ・キャンディ』は、新谷かおるに資料を貸してもらい、構図を直接描いてもらってアドバイスをもらっていたいう記事を見て読んで以来、ずっと読み返したい読み返したいと思っていたのですが、おりからの著作権問題のため、現在原作本がオールストップの再販未定の絶版、古本は高騰、コンディションのいい本がなかなか手に入らず、悔しい思いをしていました。ところが、大変喜ばしいことに、クリスマスの朝、私のあしながおじさんさんが、どこで掘り出してきたのか、『キャンディ・キャンディ』の本をプレゼントしてくれましたのです。それは部数がさぼど出回っていない貴重な特装版で、状態も良く、一冊一冊手製のハトロン紙のカバーが巻きつけてあり、前の持ち主がかなり大切にあつかっていたと思われる品物でした。(本当は自分で買った、自作自演)

今日はそんなキャンディ・キャンディ(と新谷かおる)についてです。今日は長いぞ、心してかかれ。

まず結論を最初にいってしまうと、めちゃめちゃおもしろかった、非常に感動した。今回通しで『キャンディ・キャンディ』を全編を読み返してみたわけだが、読み終わったあと、感動の熱をここまで高めて引かせない作品というのも、珍しいのではないかというぐらい激しく感動した。特に後半、ステア戦死から、最終回に向けての追い上げが素晴らしい。このあたりからは、まさに神降臨といっても過言ではなく、ストーリーも絵も神掛かった勢いがあり、ラストにむけてほどばしるパッションとエナジーに、落ちる涙をこらえることができず、ページをめくるたびに滂沱した。
そして今まで一番自分の身近にいたアルバートさんが、実は丘の上の王子様だったという第1話にリンクする有名なラストシーン。この幕締めの完成度の高さは他に例をみない。
完成度の高さで絶賛される『ポーの一族』や『リバーズ・エッジ』にすこしも引けをとらないのではないだろうか。

昭和が生んだ名作少女漫画は数多しといえども、ここまで〆がきっちりまとまった漫画もまた珍しいかろう。
永遠に終わらなさそうな大衆少女漫画のトップアンカー『ガラスの仮面』や、話は知らなくてもお蝶夫人の名前だけは知られている後半宗教かかって変な方向にいってしまった『エースをねらえ!』や、オルカル死後は精彩を欠き、やっぱオスカル様がいないとつまんないわよねーの知名度だけは他を抜きん出ている『ベルサイユのばら』や、終わり時を失い駄作に転落し、追い討ちをかけるように作者本人がリメイク版までつくってしまった『ときめきトゥナイト』や、話がどこまでいったのかわかんなくなって途中2,3巻飛ばして読んでもそれに気がつかない無限ループ漫画『王家の紋章』や、今度は夏目漱石×正岡子規で書いてもらいたいよ山岸センセの後味の悪いラストに賛否両論分かれる『日出処の天子』など、最後に少々難あり意見の分かれるの漫画も多い中、この作品ほど、綺麗にまとまった話は少ないといっていいだろう。

創作にはラストシーンがよくって、それがために向こう100年語りづがれる名作というのが存在するが、キャンディもまさにその部類に存在する漫画であろう。終わりよければすべてよしじゃないが、この最終回はケチのつけどろこがなく、これにはおしみない賞賛を贈りたい。そして、執筆者の方々には敬意をはらうことやぶさかでない。

また、絵に関しても、いがらしゆみこのふくよかなペンタッチの絵柄も作品のカラーに合っていて可愛らしく、画面の書き込みが多すぎず少なすちょうどよく、大ゴマ小ゴマの使い方もメリハリがきいていて見やすく、話もローティーンの子でもついてこれるわかりやすさで、読みやすいのではないかと思った。

昔の漫画を褒めるときの常套句として、“古さを感じさせない”とか“少しも古臭くない”、“現代でも充分通じる”というのがあるが、キャンディの場合は、そもそも、あしながおじさんや、赤毛のアン、秘密の花園、ポリアンナ、8人のいとこといった名作少女小説の漫画版として書かれたため、斬新とか革新的とかいわれる話ではなく、当時からトラディショナルでノスタルジックな(悪く言えば古臭くて幼稚)話であった。連載時の時点ですでに、少女たちに“懐かしい”という気持ちを抱かさせる漫画だったのである。わたしこういうお庭のある家に住みたいと“昔”から思っていたのよねーと、また10歳にも満たない少女達に言わせる漫画だったわけである。

私は連載時の読者だったので、当時のフィーバーぶりを直接知っているのだが、レイクウッドの薔薇の門、石の門、水の門、ああいう庭っていいなぁとか、最終回にでてくるアンソニーのママ(アルバートさんの実姉)ことローズマリー・ブラウンの肖像画がかかっている部屋、ああいう肖像画がおいてあるお屋敷っていいなぁなど、キャンディに出てくる家や洋服や暮しぶりに“昔懐かしさ”を思える少女は少なくなかった。逆に昔→子ども→幼稚→幼稚っぽくて恥ずかしいから嫌いという子も多く存在した。
したがって、今みても、キャンディはあいからずトラディショナルでノスタルジックである。

と、大絶賛してしてしまったのだが、どうしてもなつかし指数で評価が激甘になってしまっていかん。なので、ここで頭を冷静にして、現役小学生にも鑑賞に堪えうる作品であるかどうか実際に読ませて、感想を聞いてみることにした。
何事も調査である。もしかしたらおもしろいと思っているのは、PTAオバ厨だけで、今の小学生にはうけないかもしれないからな。ことに絵に関しては、リアルタイムでおいかけていたため、自分の中の絵の原点というかポールポジションになっており、古くても、そうと客観的判定できないので、他人の意見も耳を傾ける必要性があるだろう。現に『デザイナー』の絵は古臭い古臭いと絶叫したくせに、キャンディの絵はそれほどでもないかナァ?と思っているあたりが、オバ感性化の証拠ではないか。私は今、時代の変化を冷静に見つめる必要がある。
それには実際に読ませて、現代でも通用するか、試してみるのが一番いいだろう。というわけで、一緒に暮らしている現役女子小学生のうまちゃんに協力して読んでもらった。

そうしたところ帰ってきた返事が「感動した!」であった。
じゃあ、カードキャプターさくらと、セーラームーン(漫画限定)と比べて、どれが一番おもしろい?と次にこんな質問をしてみた。ともに歴代なかよしの売り上げ増加に貢献した代表作である。するとその返事はまたしても、「キャンディ・キャンディ!」であった。
それじゃあ、種村有菜とどっちがうまいと思う?
「キャンディ」
「でも絵古臭くない?」「少し。目がフサフサフサってなっている。でもお家とかバックの絵は普通だと思う」

やったよ、ゆみこ、さくらとセーラームーンに勝ったよ!有菜っちに勝ったよ。現役小学生に認めてもらったよ!やったね☆ゆみこ。

さらにここでうまちゃんは既に原作者である水木杏子の小説版『キャンディ・キャンディ』を読んだことがあるので、今度は小説版と漫画版、どちらがおもしろいかと尋ねてみた。彼女は名木田恵子(水木杏子の別ペンネーム。水木センセは女子小学生の間ではわりと読まれている児童文学作家)の児童小説も読んだことがあるので、それも含めてきいてみた。その答え。

「漫画のほうがおもしろい」

ゆみこ、勝ったよ!現役小学生は水木より、いがらしを選んだよ!よかったネ☆

(よあかない。水木センセの話があってのあの漫画だし、ゆみこ独りじゃあんなにおもしろい漫画はかけなかったと思う。いがらしは絵は可愛らしいけど、お話の作り方がもうひとつって感じがする。この人は原作がついている話はおもしろいがついていない話はつまらない。もっとも、漫画キャンディキャンディは名作であっても、小説版キャンディは児童文学としては凡庸な作品にすぎないと思うが。勝敗はゆみこ水木共同創作による漫画にあり。)

以上のことより結論。キャンディは現代の少女達の間にも充分通用し、読み継がれるに値すべき漫画である。(サンプル調査1名)

今日でも、あしながおじさんや赤毛のアンをはじめとする少女小説が多くの少女(とおばさん)に読み継がれているのを思えば、キャンディもそういったものが好きな女の子達(と母親)の間で通用するのは自明の理であり、現代でも充分受け入れられる要素の漫画である。
名前ばかりが有名すぎるのがわざわいして、反って手にとってもらえないのが難点だが、少女漫画読みたる者、基本図書として読んでおいて損はない作品だと思う。

それに関してちょっと気になったのだけれど、少女漫画評論をのぞいみると、24年組あたりの評論は掃いて捨てるほどあるし、岡崎京子や高野文子あたりはサブカル気取り論客もどきがうんざりするほど語りつくし、川原泉や佐々木倫子あたりは教養人から愛され語られもてはやされ、エンタメ嗜好というと美内すずえが決まって常連で、時代を語るというと吉田まゆみや岡野玲子あたりの名前が挙がる・・・等々さまざまな作品が取り上げられているのだけれど、意外や意外キャンディに関する記述というのは、その知名度に相反して、それほど多くはないような気がする。それはもしかしたら、幼年向けと思われているのに関係しているのかもしれないが、もしそうだとしたら大変もったいないことである。

キャンディは幼年向けに改変して作られたキッズアニメがヒットしたために、必要以上に児童向きと思われているのようだが、原作のほうはそこまで幼年向きではないことをつけくわえておく。同人女が好きそうなロンドンの寄宿舎学校や、一つ屋根の下話でもあるので、もしかしたら大きいお姉さん方にも暖かく迎え入れられるかもしれない。

そして本日の主旨である新谷かおると空戦だが、(うっかり忘れそうになった)おお、これか!あるよあるよ、いやに書き込みに力のはいったコンバットシーンがあるよ。
一目でわかる少女漫画のレベルを超えた空戦の構図がいきなり登場しているよ。ステアが機銃一挺のフランス機に乗っていて、敵のドイツ兵がプロペラ同調機構のドイツ機に乗っている。これまでもステアが飛行機に乗る場面はあったけど、それと比べたらぐっと本格的な戦闘機絵だ。

おいおい想像していたよりずっといいじゃないか。上手いよ、ゆみこ!特に、ステア機が海に落ちていくところのコマ、ドイツ軍機が左上にあって、ステア機が右後方に墜落していくやつ、遠近感があって非常にさまになっているよ。ここのコマの奥行感はキャンディ随一だな。見ていて、私も海に落っこちそうになったもの。これが資料的・航空学的に正しいのかどうかわたしにはわからんが、この構図自体は絵になっているのではないかと思った。

そして、ここで出てくる戦闘機がなんて名前なのかせっかくなので、調べてみることにした。年代が話から推定するに、1915年ぐらいなので、そのへんの資料を探せばわかるだろうと思って、ちょっと調べてみたのだが、わからなかった。駄目だ、私にはみんな同じに見えてしまって、どれだか判別がつかん。かろうじてステア機は、そのスタイルからズバット7じゃないかとあたりをつけるが、敵兵が乗っているドイツ機が、さっぱりわからん。プロペラ同調機構の登場は、1915年ドイツのフォッカー社だそうなので、そのあたりをさぐってみるのだけれど、みんなおんなじにみえてしまって、探し出せない。

そこでお知恵を拝借。

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Rook/2648/aeroplane/model17.html

ここのサイトさんの説によると、ステアの乗っているのはズバット7で、ドイツ兵の乗っているのがフォッカー D-7らしい。
ズバット7の登場は1916年、フォッカー D-7の登場は1918年春以降。なので、年代的にはこの機体の使用は正しくないということになるらしい。どうせならそこまでこだわって欲しかったのが、ちょっぴり残念なところだ。

そういうところはここに限らず他にもある。テリィがステア達に別荘の倉庫にしまってあった飛行機を見せる場面、おやじが若い頃好きだったと言っているのだけれど、複葉機なんてテリィの親父の若い頃には当然まだないはずなので、あそこも年代があわないことになる。時代考証に突っ込みをいれるときりがないので、あれはアードレーファミリーに気遣って、大貴族のテリィが金に物を言わせてわざわざ用意したものと解釈しておくことにでもしておこう。

アンソニー落馬死を馬術的・動物学的観点からみたものと、ステア墜落死の航空学・航空史観点からみたものと比較した場合、正確ではどちらに軍配があがるだろう?1910年頃の馬術と第一次世界大戦時の空戦に精通している人がいたら、是非とも聞いてみたいところだ。

さて、長くなった本文であるがいよいよまとめることにしよう。
ステア戦死はキャンディキャンディ最大のクライマックスである。ここを頂点にキャンディは最高潮の盛り上がりをみせる。書いているほうの力の入れ具合も半端ではなく、それは絵一コマからもひしひしと伝わってくる。
これらが新谷氏の協力によって出来上がっているのか、本当のところはわからない。いがらし氏のホラかもしれないし、記憶違いかもしれない。また仮に資料を借りたとしても、それをこの場面で使用したという保証はどこにもない。
でももしそうだったら嬉しいなぁというのが、私の願いであり感想である。
終(うまくまとまった)


※キャンディキャンディ/いがらしゆみこ・水木杏子
なかよし1975年4月号〜1979年3月号連載。
第一次世界大戦がはじまるちょっと前のアメリカ。孤児キャンディはアメリカきっての大富豪アードレー家の養女となる。どんな逆境にもまけず明るく生きるキャンディ。愛する人との死、別れを経て、キャンディは看護婦になる道を選ぶ。タイプの違うカッコいい男の子たちが大量に登場し(全員美形で超大金持ち)、誰が一番いいかで大激論になってはや四半世紀の名作少女漫画。ちなみに当ページの制作者は最初に述べたとおり、テリュース派である。



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