言葉というのは厄介な代物である。 1つの事を指定すると、他の全てを排除してしまう性質がある。
例えば「青」と言えば、あなたは青色を想像し、その他の全ての色を イメージから排除してしまう。「青」と言えば、赤でも、白でも、 緑でも無いという意味を無意識に包含してしまう。
ゆえに「今ここ」という言葉を聞いたなら、その性質に従い思考は 「過去」と「未来」を自動的に排除してしまう。
誰かが「今ここに生きなさい」と言うのを聞くと、なんとかして 「過去」と「未来」を排除して生きようとするかもしれない。 しかしながら、それは不可能であろう。1年後や10年後のことを 考えずに生きることは可能だが、それよりもっと近い未来のことを 考えずに生きることはできないだろう。例えば、あなたは3分後の 未来のことを考えて、今インスタントラーメンにお湯を注ぐ。 3分後ですらいまだ存在していないという意味において立派に未来で ある。同様にして、さっき事故に遇いかけてまだびっくりしているのも 立派に過去である。それはすでに存在していない現象なのだから。
「今ここ」を字義通りに解釈すると、大脳を機能させて生きることが できなくなる。記憶や身に付けた技術は全て過去に、これからする行動や 計画は全て未来に関係しているからだ。
同様に、「思考の中に生きないこと」というのも無意味な言葉となる。 思考は、例えば「目玉焼きを焼く」というような単純な行為にも必ず 関与するからだ。
実際のところ、世に言う「いまここ」の99%は余りに過剰になった 未来志向への反動、1つのバランスなのだろう。過剰な未来志向とは、 例えば10代の少年少女が自分達の老後はどうなるんだろうと心配して いたりすることが珍しくもない今のこの国の社会の状態である。
その反対側の極に、返す計画も踏み倒す計画も立てないまま消費者金融で 借金したり、高額なローンを次々と組んで今日の楽しみのためだけに 買い物をする人達の姿がある。
どちらの現象も振り子のような、あるいはブランコの前後運動のような ものであり、いつまでも続けられるものではない。
実際のところ、神秘家が「今ここ」と言う時、それは時間にも空間にも かかわずらってはいない。過去あるいは未来と切り離された「今」とも、 他のどこかと切り離された「ここ」とも関係は無い。
その体験は、限り無き多様性を一体性の中に包含している宇宙を、 さらに超越するもの、「空」とか「無」と呼ばれた何かである。
それを一度体験した者にとっては、そのスペースのみが、 「今、ここ」と呼ぶに値するものとなる。
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