カフェとか、図書館とか、ふらふらとさまようことがよくある。 おそらくは同じようなものしか手に入らないのだろうが、 一軒、また一軒とはしごして行ったりする時さえある。
記憶をたどるに、中学生になるころまでには、この性癖は確立されていた。 私の中で。どこにも行き場がないから、ありとあらゆるところを探して ふらふらとさまよい続ける。
目的があるわけではないから、ある意味それはどこでもいい。 自宅から10分の住宅街の中のカフェでも、 イベリア半島最北端、ラ・コル−ニャの街の海沿いに聳え立つ ヘラクレスの塔であっても、さしたる違いはなかった。
違いがあるとすれば、それは人に話した時の反応くらいなものである。 自分が知らないことを知りたいという好奇心の豊かな人間の。
それもまた相対的ではある。
奈良に「法隆寺」という有名な寺があるが、私の子供時代には 「法隆寺」というのは陳腐の象徴であった。 親が金をかけずにどこかに出かけるために子供を法隆寺に、 小中学校が手間と金を省きながらも教育的に「意味のあるところ」に 連れて行こうと生徒を法隆寺に連れて行く。
子供は、ただただ飽き飽きしている。
中学の夏休みの英語の課題に、外国人に英語でインタビューをとってこいと いうのがあった。外国人を見つけるのに都合がいいので法隆寺に向かった。
予想していたとおり、外国人を見つけるのに苦労はしなかった。 イギリス人の観光客を捕まえ、インタビューした。 この時はまだ本当に英語を知らなかったので苦労した。
そのイギリス人はずいぶんと感動していた。世界最古の木造建築、 歴史的な仏教の寺、そんなことに感動していたようだった。
インタビューを終え、友人と、わざわざイギリスからこんな救いようのない 奈良の片田舎に来て、法隆寺を見て感動して帰るなんて、変なやつもいたもんだ とかいった内容の話をアクエリアスレモン片手にしていた記憶がある。
私と友達の「陳腐」は、かのイギリス人には「エキゾチック」だったのだ。 そして、誰が見に来ようと寺は寺のままだ。人間のように人に合わせて 態度をあれこれ変えたりはしない。
「事実」より「認識」のほうが人にとって大きな影響を与えることも多い。
私はこれからもいろんなところを訪れるであろう。 そして何かを感じたり、考えたりもするに違いない。 けれども、それらの全てはひょっとしたら全然訪れたところや出会った人とは 関係ないかもしれないのだ。あるいは全然関係ないということはないにしろ、 かなりの程度において関係無いのかもしれない。
私は、私の、そして幾重にも重なる集合無意識の無限とも思える幻想の波の中を この現実世界の中の地理的現実の中を旅すると同時にさまよいつづけるのだろうか。
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