生きていると、便宜上どうしても「私」という言葉を使うことになる。
「私はお腹が空きました。」とか「私は今日用事があります。」とか、 etc,etc...。
余りにも長い間、余りにもたくさんの回数、繰り返して使うので、 どうも「私」という実体があるかのように感じられる。
「おもしろい」とか「楽しい」とか「〜ができる」とか「〜は苦手な」 とか「あんまり働きたがらない」とか、いろんな形容詞のついた「私」 という実体があるかのように感じられる。
けれども、「じゃあその「私」とやらを見せてみろ」と言われたら、 どうしたらいいのか?どうしようもない。レントゲンにもCTスキャンにも MRIにも映らない。その実体をほいっと見せてあげることは出来ない。
「私」の存在というものを客観的に他者に説明するのは難しいようだ。
じゃあせめて自分自身では「私」というものを感じられるのだろうか? 自分の手、足などの身体なら感じられる。怒りや悲しみといった感情なら 感じられる。「これはこうだ」とか「あれはああだ」とかいった思考なら 見ることも出来る。
でもそれらは、あるいはそれらの集合は果たして「私」なのだろうか?
誰かが私の右手をナイフで斬り付けてきたら、「私を傷つけないで」と 言うことだろう。けれども、仮に右手が無くなったところで、大変な不便や 苦しみはあるだろうが、「私」そのものが消滅するわけではない。
いろんなことがあると、「私は悲しい」と人に言うかもしれない。 でも、悲しみが無くなっても、「私」が消滅してしまうわけではない。
「私の考えはこうです」とか「私もこう考えています」と言うことは 日常茶飯事だが、考えを変えたとしても私自身が何か別のものに 変わってしまうわけではない。
「私」に仮に属性があるとすれば、その属性は全て変化している ように見える。そして一つのことを形容する言葉が全て変化してしまう のならば、元々のそれの意味自体が大きく変わってしまうだろう。
例えば、「エンジンが無くて、人力で動く自動車」と言えば、それはすでに 自動車ではなくて自転車である。
デカルトは、「我思う故に我あり」と言った。 しかし人には誰でも、何も思っていない時がある。何も考えていない時には あなたは存在していないのだろうか?また、「私」というものはそこまで 思考によって規定されうるのだろうか?
あらゆる属性を外した私というもの、それだけが私と呼ぶに値する。 そしてそれは属性が無い故に個人ですらない。何ものとも隔たれておらず、 かといってくっついている訳でも無い。一つでもなければ二つでもない。
それだけが、あらゆる言葉の終焉するところ。
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