Espressoを飲みながら

2002年07月03日(水) 「私」

 生きていると、便宜上どうしても「私」という言葉を使うことになる。

「私はお腹が空きました。」とか「私は今日用事があります。」とか、
etc,etc...。

余りにも長い間、余りにもたくさんの回数、繰り返して使うので、
どうも「私」という実体があるかのように感じられる。

「おもしろい」とか「楽しい」とか「〜ができる」とか「〜は苦手な」
とか「あんまり働きたがらない」とか、いろんな形容詞のついた「私」
という実体があるかのように感じられる。

けれども、「じゃあその「私」とやらを見せてみろ」と言われたら、
どうしたらいいのか?どうしようもない。レントゲンにもCTスキャンにも
MRIにも映らない。その実体をほいっと見せてあげることは出来ない。

「私」の存在というものを客観的に他者に説明するのは難しいようだ。

じゃあせめて自分自身では「私」というものを感じられるのだろうか?
自分の手、足などの身体なら感じられる。怒りや悲しみといった感情なら
感じられる。「これはこうだ」とか「あれはああだ」とかいった思考なら
見ることも出来る。

でもそれらは、あるいはそれらの集合は果たして「私」なのだろうか?

誰かが私の右手をナイフで斬り付けてきたら、「私を傷つけないで」と
言うことだろう。けれども、仮に右手が無くなったところで、大変な不便や
苦しみはあるだろうが、「私」そのものが消滅するわけではない。

いろんなことがあると、「私は悲しい」と人に言うかもしれない。
でも、悲しみが無くなっても、「私」が消滅してしまうわけではない。

「私の考えはこうです」とか「私もこう考えています」と言うことは
日常茶飯事だが、考えを変えたとしても私自身が何か別のものに
変わってしまうわけではない。

 「私」に仮に属性があるとすれば、その属性は全て変化している
ように見える。そして一つのことを形容する言葉が全て変化してしまう
のならば、元々のそれの意味自体が大きく変わってしまうだろう。

例えば、「エンジンが無くて、人力で動く自動車」と言えば、それはすでに
自動車ではなくて自転車である。

 デカルトは、「我思う故に我あり」と言った。
しかし人には誰でも、何も思っていない時がある。何も考えていない時には
あなたは存在していないのだろうか?また、「私」というものはそこまで
思考によって規定されうるのだろうか?

 あらゆる属性を外した私というもの、それだけが私と呼ぶに値する。
そしてそれは属性が無い故に個人ですらない。何ものとも隔たれておらず、
かといってくっついている訳でも無い。一つでもなければ二つでもない。

 それだけが、あらゆる言葉の終焉するところ。


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空遊 [MAIL]

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