武ニュースDiary

* このサイトはリンクフリーです。ご連絡はいりません。(下さっても結構です。^_^)
* 引用は、引用であるとわかる書き方なら、必ずしも引用元(ココ)を表示しなくても構いません。
* 携帯からのアドレスは、http://www.enpitu.ne.jp/m/v?id=23473 です。
* 下の検索窓(目次ページにもあり)からキーワードでDiaryの全記事が検索できます。
* バナーは世己さんから頂きました。
* Se inter ni estus samideanoj, kontaktu al mi. Mi elkore atendas vin, antauxdankon!
目次|前の記事|新しい日記
| 2008年01月01日(火) |
U Magazine��(更新) |
あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いいたします♪
U Magazin��
先輩で、兄弟ではありません
「投名状」はクランクインから公開、プロモーションに至るまで、 ジェット・リー、アンディ・ラウ、金城武の3人が出番の多少で 仲が悪いとずっと言われてきた。 金城武は、撮影期間中、あまり話をしなかったのは本当だという。
「でも、それは外部の人が言うような、仲が悪かったからではないです。 ぼくらは兄弟とは言えない、あの人たちは先輩だと思ってます。 何ヶ月も一緒のところに閉じ込められていたから、 おしゃべりをする時間はたくさんあったように見えるでしょうけど、 実際は毎日のスケジュールがすごく詰まっていたんです。
クランクインはちょうど冬の時期だったから、 山では朝8時ぐらいにようやく空が明るくなる。 午後は4時半になったらもう暗くて。 ぼくらは毎日車で5、6時間かけて行って、 向こうでメイクをしたら、もうお昼で、食事になる。 こんなふうで、1日に1つか2つのシーンしかとれませんでした。 車でホテルに帰るともう8時9時。 シャワーを浴びたらすぐ寝なくちゃならない。 次の日はまた4時起床ですからね!」
撮影所では、実際はそれぞれが家のような集まりを作っていたと、金城武は言う。
「どの出演者も、ある決まったスタッフたちと一緒でした。 食事のときは、それぞれ固まって、時々、お互いに訪問しあうこともある。 けれど、彼らがこちらを訪ねてくるとき以外は、 ぼくはできるだけ他の人の邪魔をしないようにしていました。 休んでいるときや、気持ちを落ち着けているときに、煩わさないように。
僕自身は出番のないときは、脚本を眺めたり、ゲームをしてみたり。 どうせ、山の中で、どこも行くとこはないんですから。 さもなければ、他の人の撮影を見に行く。 でも、とても寒くて、ちょっと眺めてると、すぐまた暗くなってしまうんです」
続けて行きます。
「赤壁」との縁 20:45
近年、金城武は続けて何本もの国内ロケの時代劇に出演している。 「投名状」の後は、ジョン・ウーの本国復帰作「赤壁」だ。 メディア・アジアが準備中の「水滸伝」も、 彼にオファーの意思があるという噂もある。 時代劇でなくとも、金城武の砂金の主演映画は、ほとんどが注目作で、 「如果・愛」「傷城」と相次ぎ、 相手がアンディ・ラウでなければトニー・レオンという具合で、 1年に1作という、脚本の厳選によって レベルはどんどん上がってきたように見える。
「なぜ1年に1本なのか、自分でもわかりません。 たまたまそうだったということでしょう。 ぼくは自分からどういう仕事がやりたいとか、 次は何を撮るとか計画立てていく方ではないので、 誰かがオファーしてくれて、脚本を見て、いいなと思ったら、やってみる。 だって、いくら選んだって、チャン・イーモウを自分で選ぶことはできないでしょう」
確かに、チャン・イーモウの「LOVERS」は、 ウォン・カーウァイ以後、再び金城武を世界へと押し出した。 チャンは当時、内地の俳優を捨てて、アンディ・ラウと金城武を指名したのだ。 それだけで大したものである。
「ぼくも、どうしてチャン・イーモウがぼくを選んだのかわかりませんでした。 その話を聞いたときは、他の俳優の名前と間違えているんじゃないかと思いましたよ。 その後、このような、いわゆる中国の大作映画に次々と出られるようになり、 大勢の人が自分を見てくれるようになって、とても幸運だったと思っています。 でも、そのときは、とても心配でした。 撮影規模がものすごく大きかったから。 ぼくがそれまでやってきたこと、学んでことが使えるかどうか分からなかったんです」
次々と出演契約が続き、この1年、彼はずっと北京で撮影をしていた。 「投名状」が終わると、すぐ「赤壁」出演が発表され、 諸葛孔明を演じることになった。
「そのとき、もし『投名状』が終わって家に帰った後で、 また新しい大作の時代劇に出ないかと話があったのなら、 多分、『あーあ』という感じだったかもしれない。 ほんとに、そういう反応だったんじゃないかな。 これも縁だと思いますね、そのときは、ちょうどまだスーツケースが北京にあって、 その後の仕事のスケジュールも決まってなかった。 どうせ、『投名状』で苦労したのだから、 もうちょっとぐらい苦労しても同じだって思ったんです」
一番おかしかったのは、この話をピーター・チャンにしたところ、 チャンは彼のことを笑ってこう言ったことだ。 「彼は『こんな日が来るとはね』と言いましたよ。 だって、以前、ぼくはこんな風に次から次へと映画に出るなんてことはめったになく、 いつも1つの作品が終わると、必ず休んでいましたから」(続く)
前に書いたように、香港経済日報の特集記事が、この雑誌の記事とかぶっていて、 同じ記者による書き分けのせいですが、ちょうど上の部分にあたるところが、 少し書き方が違うので、あわせてそちらも以下に紹介することにします。
ここ数年の金城武は、平均して1年に1本の映画に出るという具合だった。 彼が意識的に量を減らし、脚本を厳選しているのだと思っていたら、 なんとそれはただ「縁」のせいだったのだ。
「どんなに選んだって、チャン・イーモウを選ぶなんてことはできないでしょう? 本当はぼくも、彼がなぜぼくを『LOVERS』に選んだのかわからない。 事務所の人からこの話を聞いたときは、 監督は名前を間違えているんじゃないのかって聞き返しました。 まさか自分にこんなチャンスがあるなんてね」
冷静な金城武は、もちろん「LOVERS」が彼の仕事に どんな意味をもっていたかを理解している。
「その後、いわゆる中国の大作映画に次々と出るようになりました。 オファーをしてくれるのは、とても幸運だと思います。 初めは心配でもあったんですが、なぜならすごく大規模でしょう、 ぼくがこれまでにやってきたことや、 勉強したことが、使えるのかどうかわからなかった。 彼らの映画に出ることは、こちらの持ち出しよりも収穫の方が絶対多かったですね」
ジョン・ウー監督の「赤壁」への出演もまた、もう1つの出会いである。
「『赤壁』はこちらの計画にあったものではなく、 突然電話があって、『赤壁』に出るチャンスがあると言ってきたんです。 ぼくは、だめだよって言いました。 というのも、トニー(・レオン)が大丈夫か心配でしたから。
ちょうどそのときは、「投名状」の撮影が終わったときで、北京にいました。 荷物もまだあって、次に何をしろというのも決まっていなかった。 で、『投名状』は本当に大変だった、 もう少し大変でもかまわないやって心の中で呟いたんです。 もし、そのときもう台北に帰っていて、 大作で時代劇で、北京ロケで、と話があったら、休みたいと思ったかもしれません」
このとき、ピーターも「赤壁」に出るよう、彼を励ました。
「彼は、ぼくが積極的でないって言うんです。 だから『赤壁』に出るんだよと言ったら、『出なさい、出なさい』って。 おまけに『こんな日が来るとはね』とからかわれました。 つまり、ぼくが1本映画が終わると、 すぐ休みたがるのを知っていたからなんですけど」
結局、金城武は、今年北京で一番長くすごすことになった。 最も寒いときと、最も熱いときの両方経験して。 (香港経済日報 2007.12.24)
BBS ネタバレDiary 19:50
|