| 2011年07月27日(水) |
続き。そのちいさな世界と連動する人の繋がりの虚しさと充実。 |
そんなこんなで、ここ数日のもやもやのごく一部が 少し分析できた。 それを今日は母にまでぼやいたりしてみた。
人は、ややもすると わかりたいものだけわかろうとする。 余力もここまでが限界。 だから、 理解できる人に理解されるっていう欲は簡単に満たされるだろうけど、 理解できない人に理解されるっていう欲が満たされる機会は、滅多にない。 それがネットコミュニティ。
だから、ツイッターも、大きな声はより大きくなる、小さな声はより小さくなる(させられる)、 一番届かせたい人には届かないし、一番受け取ってもらいたい人には受け取ってもらえなかったりする。
誰にも受けなくって小さくなる声を、無理に大きくしようと張り上げれば、批難か告訴に遭いかねない。 誰もそんな疲れることまでして頑張りたくはない。生活が大事だもの。 ・・・って思って黙る人も多いかも。
一例挙げると、
「御用」という言葉の真の定義、と、 世間でとおっている「御用」の見分け方、と、 その二つが微妙に(大いに?)ズレてるからじゃないかな。 少しでも「ここまでなら大丈夫」って言ったり「原発由来じゃないものもある」なんて言うと、 そんな人はすぐフィルターにかかって 「御用」の棚に仕舞われて終わるか、処分されるさだめ。 貼ったラベルを剥がしてみる人もまた背中にラベル貼られる。 それを剥がすには相当の力が要るだろう。
そんなもやもやする虚しい作業を、どのようにわかってもらえるのかを、 悶々考えていたが、
母に逢ってそんな心境を吐露してるうちに、 本当はこんなことに今こだわるより 大事なことがあると思えてきた。
ちいさなPCや携帯の中のやり取りで凹んだりしてるの勿体無い。 老いに向かう親を見つめる母を見つめる私を見つめる若い世代も含めて、 みんなが、生きる意味を考えながら自分なりに日々を歩んでる、旅の途中の人たち同志。
そしてネット上のリプライでもらった言葉にもまた励まされた。 その主旨をざっくりまとめると、
生身の人の言葉のやり取りのツールの使い方はそれこそ人の数だけあるし、その中で喜怒哀楽も感じて時には辛くもなるけども そういう感情自体を味わい経験する為に命を頂いたんだから。
…というような、嬉しい、ヒントをもらえたんだ。
身体を離れて心を取り出して言葉をやり取りできるネットだからこそ得られたこともたくさんあり、 見えて触れて考えることのできる身体あってのおかげでもある。
心と身体をもらったおかげ、そのもらった人々の中での、経験。
|