| 2008年12月31日(水) |
科学(っていう人智)が追いついてないことをどう解釈していれば幸せかと。 |
科学万能主義ではゼンゼン無いんだけども。 私はあまり誰かの説を素直に信じるほうでは実はなくて。意地もあるし臆病もあるから自分のフィルターにかける。が つかみどころの無い「心」ってもののちからのことで、信じたくて信じていることは色々とある。
人類がやっとのことで真理を追究した結果の科学、 でも科学は心がどういうものかを納得のいくようには説明してくれてない。 麻酔のかかるしくみさえ科学では証明されてないのに 医師は手術前には必ず麻酔をかけているし。
たとえば今科学的に「笑い」が免疫を高めることを証明しつつあるというけど そんなことは昔からみんななんとなく体で実感してたと思う。 科学がやっと追いついただけ。 科学なんかで説明のつかないことが まだまだ切り無く、いっぱいある。
でも「笑い」を生むしくみや「笑い」を活用するしくみを知っていればもう医者はいらないかというと違う。 笑って暮らして免疫力をつけて病院にかかる回数を減らそうとするのはいいけど がんばって笑って暮らすので病院は建てなくてもいいんだというのは違う。
たとえば綺麗で前向きな言葉をかけてやると水が美しく結晶するという、 それは「現時点での」科学的には何の根拠もカケラもないかもしれない。 だから信じない、じゃなくて、 そういうこともきっとあると信じて心がけて生きると楽しいかも。 でも声かけと念だけで下水を浄水に変えて利用するかというとそんなことは今できない。 ましてや「私がポジティブな言葉をかけた水だからどうぞ買って飲んで健康になって」という商品がもしあったら、その真偽をどうやって確かめるのか。
祈ったように、望んだように、だいたい成る。 でも、祈ったように成れるのだから玄関に今現在、鍵が要らないかというとそれも違う。 火災報知器が必要ないかというとそれも違う。 幼い我が子を誘拐されることなど全く望んでもいない。 飲酒運転のトラックに轢かれることも全く望んでもいない。 望まないことだったのに現実にどこかで起こっている。 ニュースを見ても本当のことはわからないけど、ニュースを見ないとわからないこともある。
旅に地図はやはり要るけど 誰かが書いた地図が正しいのか正しくないのか勘で勝負する毎日。 ましてその心の力(波動というのもこれのことかと解釈) とか 生まれてきた意味とか使命とか前世とか来世とか その他、今の科学では全く裏付けをとれない本当のことを、 個人的にどうにでもこうにでも予測し解釈し得ることが、 もしも個人的な・ある利益やある意図のもとに・あるいは無意識のうちに・微妙に操作され利用されることがあったら、 その目的が利他的なのか利己的なのかをどう見分けるのかという問題は かなり命にもかかわってくる。
自覚無自覚に関わらず、みんな各自の心の奥に神様的な愛っていうか慈悲のようなものは 多分。宝のように隠し持ってると(授かってると) 私は思ってるし(信じてるし)、 それを他人に強く与えることが自分の幸せと思う心で利己が利他と完全一致になって祈りを送れば 彼に(彼女に)きっと波及すると思ってる(信じてる)。 その波は彼(彼女)を変えて幸せにすると思ってる(信じてる)し、それを自分の幸せと感じられる能力がみんなに本来あると思ってて(信じてて) そんな反応で新しく生まれた色もブレンドして綺麗になっていけば それこそヒトの生きる目的、仕事かもしれない。 けれど、 そんなことは今の科学でゼンゼン証明されてない。 けれど、 多くの人が、どこかで、それがホントは本当だと知ってるんじゃないか。 (そしてまだ多くの人が、自分の宝の存在に気付かないでいるために、ないものねだりのために、人の幸せを喜べないでいるんじゃないか。) 知ってる人は知ってるというか、それを信じてるほうがダンゼン相互に幸せにし合うだろう。親子でも友達でも恋人でも社会でも世界でもそうだと思う(信じてる)。 その、「利己=利他」的な心の力を信じて皆が使っていけば実際幸せだと思うし、幸せを幸せだと判別出来ると思う(信じてる)。 だからって今シャベリ言葉と書き言葉が全く必要ないかというと、それは違う。 気づいてない人が気づくために、気長に無言で幸せ見本を見せているだけで果たして大丈夫なのか。
精神世界の本をいくつか人に薦めたりした私は実は 何よりも精神世界っていうジャンルこそヘタすると危ないとも思っていて それは薬草の花畑で紛らわしい毒草を摘み取り口にした痛い経験がそうさせる。 本当に紛らわしいその草を食べるとほかの草は目に入らなくなるようになっている。
だから薬草百科事典は必要だと思う。 毒草がどんななのか(外見や性質もさることながら、誰がどうしてそれを作ったか)を知らなければ、 薬草を手に入れたり勧めたりすることは不可能だから。 欲しいのは、草の側からアピールしている情報じゃなくて 信じて飲まなきゃ効かないという情報でもなくて 誰にも操作されない、利他的な公平な事典と証明されるものを欲してる。
最近、ほとんど薬と言っていい草を見つけた、かも。副作用は極めて少ないやつ、かも。
思考が実現化するという、考え方がある。 望めば、それが引き寄せられるという考え方がある。 (ヒックス夫妻の著) 何を望めば幸せかは、自分が内包する「感情のナビゲーション」の快・不快が教えてくれるという。 他人の評価じゃなく自分の心が教えてくれるという。 本来ヒトは自分の快に素直に従っておけば自他共に幸せになってるはずだと。許容することが我慢じゃなく。 だからヒト本来の在るべき姿の心の声という感情ナビが 喜ぶほうに思考を向ければそれが引き寄せられて現実になる。 不快だとナビが感じたことには思考を極力向けないでおく、 イヤな問題自体に関心を向けるんじゃなくて 良くなる解決方法のほうに関心を向けること、 欠けてる部分に目を向けるんじゃなくて 満ちることに思考を向けること、 それがまずは自分を幸せにするし、 誰の幸せも邪魔しない――、
その教えに、現時点で7割方賛成している。というか、ひょっとすると以前から知ってたのかもしれない。 が、自分含めみんなのナビは、 壊れてないのだろうか。狂わされていないのだろうか。ちゃんと、各自内在する大きな慈愛と繋がっているんだろか。 そのナビ自体を信じて引き寄せたいものを引き寄せていれば、みんなが幸せになれる、のだろうか。 彼が何を引き寄せても、いかなるものを引き寄せていても、それを笑って見過ごしていられる状況なのだろうか。
一人ひとりが求める幸福はそれぞれ違い それを全て矛盾なく認め合えて共存できて、バランスよく叶える方向があるとしたら 立体地図も交通整理も必要だと思う。 起こりうる危険を知らなければ安全な道を選ぶのは難しい。 信号を見ていても危ないのに、信号を見てなければ余計に危ない。 「ここに行きたい」の気持ちだけで左右も確認せずに皆が動けば交差点で出会い頭に衝突するだろう。 でも敢えて、みんなのそれぞれの、行きたい場所を、互いに認めることが喜んでできるんだったら。そりゃいい。 それで昨日よりも新しいことを皆がそれぞれに付け加え変化させていられるんだったら。
基本、ゆるく仏教寄りなので、 絶対ってのは、確かに無いと思う。 自分が考えた絶対とか誰かが考えた絶対とかもきっと無いと思う。 絶対良いとか絶対悪いとかも多分無いと思う。 良いとか悪いが在ったとしてもそれは自分の中にも多かれ少なかれ在ると思っておけば。 良いも悪いも自分の鏡だと思っておけば腑に落ちる、落ちやすい。 でもとりあえず何かに従って、良いと思うことに添って行動していないと肉体の生は営めない。 けれど 「何が絶対」とか思わされること&そういうことを仕掛ける個人や団体には 理屈で説明できない警戒心をまず常に抱く。 でもその一方で 「どれも絶対じゃない、完璧は無い、だから許容しよう」と考えること・考えられることそれ自体がその幸せな心が 「完璧な」善を目指すことに却って繋がる、のかも。
精神世界の筆者や指導者の言うことにはちょっと極端に何かを言い切ってしまうものも多く、 たとえば誰かが何かを宇宙意思からの神託だと言い切っていれば それを聞く私は「どうしてそう言い切れる?」「まずその前提自体が勘違いってことはないの?作り話ってことはないの?」と 必ずフツーに警戒心を感じる。 あるいはそれを想像力で頑張って、 抽象概念の比喩だと読み替えてみる。 私は納得できてもそれを誰かに勧められるかはとりあえず 反芻してみる。 けれど科学なんかの裏付けがあれば安心するってわけじゃない。 その思想が広まることで結果的にどこかの誰かだけが得をするような仕組みがありそうかなさそうかで判断するしかなく。 難しいが。 何が決定版?さっさと安心したいとも思い、 そんな簡単に安心させてもらいたくはないとも思う。
でも、ここまできて、も一っ回信じてみたいかも。 自分も含め皆んなの、各自内在するおーきな慈愛と感情ナビが、ホントは連携する筈だと。 突き詰めてみて、嬉しい、と思うことに目を向けたほうが幸せに感じるし、成るし、させる筈だと。
(性善説大さじ3、性悪説大さじ1、くらい振りかけて書を読む癖がある。この日記はある程度はフィクションかも)
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