(仮)耽奇館主人の日記
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| 2005年08月12日(金) |
家族の新盆、ヤクザの新盆のこと。 |
いよいよお盆直前。 今年の夏は、私のばあちゃん、おふくろ、そして創価学会会員だった伯母とその夫と従弟の新盆である。 伯母の家族は一家そろって、死ぬ前と、死んだ後に、私が浄土真宗に改宗させたので、無事、先祖代々のお墓に入っている。 もう一人、新盆の人がいるけれども、こちらは先月に亡くなった、老ヤクザのHさんである。 当日記の「船の中の極道のこと」で触れた人だ。 葬儀は地味だったが、新盆は各方面からつきあいのあった親分たちが集まってくるので、ちょっとした壮観な眺めになる。 お経を読むのは、葬儀に続いて、私である。 住職の従弟、ケンタは、坐骨神経痛に加えて椎間板ヘルニアで入院中だが、ヤクザが怖いので、入院しててほんとによかったなどと喜んでいた。 副住職のミスラ君は、今回はお手伝いという感じ。 で。 親分たちのうちの一人が、抗争中とかで、タマを狙われてるとのこと。 それなら、お気持ちだけで結構、周囲に迷惑だから来るなと言ったのだが、生前のHさんとは兄弟分、迷惑は承知の上、そこを何とかよろしくお願いしますと頭を下げてきた。 しょうがないので、ミスラ君に新宿へ防弾チョッキを買いに行かせた。 巻き添えを食って死ぬなんて真っ平だからである。 お盆でも、ヤクザ同士の抗争というのは、ほんとうに手段を選ばないので、こっちもそれなりの準備はしなくちゃならない。 映画やマンガそこのけのエゲツない手段の数々をいつだったか、檀家の親分さんから聞いたことがあるが、一番笑えたのが、親分たちの宴会の席に、芸人に化けたヒットマンの二人組が、漫才をしながら、拳銃をぶっ放したというものだった。 あいにく、標的は仕留めそこなったらしいが。 お寺は普通、ヤクザでも抗争は避けるものだが、例外はある。 昭和五十年代に、どこだったかのお寺で、葬儀中に、襲撃があったのだ。 「でも、犬神さんは、三十八口径までなら六発食らっても死にゃしませんぜ、いいガタイしてんだから」と親分さん。 「あんたねぇ、そういう問題じゃねえでしょ。そもそも、標的(マト)にならねえってことが肝心要でしょうが。あんたたちのケンカにお寺を巻き込むなんざぁ、地獄にすら行けませんな」と私。 「地獄にも行けなかったら、一体どこへ行くんですかね?」 「畜生か虫けらに生まれ変わるってぇとこでしょうな」 そんなわけで、今年の新盆は、なかなかにぎやか、刺激に満ち満ちたものになりそうである。 ところで、こういう筋の方々から頂くお布施は、全額、老人ホームか福祉施設に寄付することにしている。 ヤクザのお金というものは、穢れたお金である。例え、合法で得たものであってもだ。 それで、寄付することできれいに使い切って、清らかなものに昇華させる。 一度、子分たちから、文句を言われたことがあるが、「てめえらの金がお年寄りや障害者のために生まれ変わってるんでえ、文句あるか!」と一喝してやった。 家族の泥、ヤクザの泥を、きれいな水で浸して、そこから蓮華を咲かせる。それをやってやらなくっちゃあ、坊主なんかいなくてもいい。
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お盆が来るたびに。 祖父が幼かった私に読んでくれた絵本を思い出す。 「蜘蛛の糸」だ。 読み終えた後、祖父はこう言った。 例え、人間に絶望しても、慈悲の心はついえることがないんだ・・・。 そう。 蜘蛛を助けてやる慈悲。 そして、地獄に蜘蛛の糸を垂らす慈悲。 それらは、小さなものも、大きなものも超越した「情」なのだ。 要は、気持ちである。 気持ちでどれだけ、相手につくしてやれるか。 私は絶望しきっても、決して渇くことはないだろう。 今日はここまで。
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