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漫画関連ファイル


2002年05月17日(金)
「萌える」ということについて

実は私は「萌える」という言葉を、今様の意味で使うことができない。
というのは、知人のお子さんの名前にこの字が使われているから
「萌え〜」という表記を見るたび、その子のことが頭をかすめ
なんとなく申し訳なくなってしまうのだ。
そこのご家庭は、そういう文化には全然縁がないので、
きっと今までは何ごともなく済んできただろうけど、子供達が大きくなった今
いろいろと言われることも増えてくるんじゃないかなと思う。
(そういうことに負けないくらい元気な子だから心配ないけれど。)
でもちょっとそのことについて書きたくなったので、使ってみる。(ごめん、Mちゃん)

昨日たまたま、某ちゃんねるの合宿スレのダイジェストを読んでいて、
ものすごく常識のない厨房とか、犯罪スレスレのいろいろな出来事を読んで
ひどいなあ、とかすごいなあ、とかネタじゃないの?とかいろいろ思ったわけだけれど
反面、そこまでいかなくても、誰にでもちょっとは可能性のあることかもしれないと
思ったんでした。それを説明しようと思うけど、できるかな?

何かに「萌える」という気持ちは、すごく個人的なもので
その人の志向とか嗜好とか、これまでに蓄積されてきたものとかが関係するし
その人の成育歴の中で欠けているものを満たしてくれるものを
発見した時に一気にそれに向かうんじゃないか?と思ったりする。
もちろんもっとお気軽な「好き」という意味にも使われているけれど。

客観的に見れば、それは個人的なものでありながら
世間の流行や、同時代的な要素に影響されている。
マスメディアからの情報を浴びて育っている私たちのバックグランドは
完全にオリジナルではありえない。

でも、自分にとっては、自分が「萌える」ということは、すごく大事なこと。
個人的な秘密。少し恋心に似ている。対象は三次元ではないこともあるけれど。

自分の心の中の一番やわらかい部分が反応した事柄について
もっともっと知りたくなる。もっともっと語りたくなる。
それが同人誌の活動と結びついていくのではないかと、私は推測する。
(あんまり詳しくないので推測)

即売会に行くと様々な同人誌があるらしいし、その中には自分にぴったりくるものが
見つかるかもしれない。ああ、どうして、こんなに同じことを考えているんだろう。
ひょとして前世で私たちは知り合いだったのではないかしら?
と思ってしまう人がいるのかもしれない。
そうして犯罪行為にまで行ってしまう厨房の方々については
言い訳のしようもなく、同じ物が好きということを口実に人の好意に
甘えようとしてしまうことは言語道断だけれども。

「萌える」ということが、ごく個人的な領域に根ざしたものだから
同じものに「萌える」人はすごく親しくなれる可能性もある。
今ほどネットや即売会が盛んではなかった私の学生時代、
萩尾さんの漫画を読んではまれるかどうかで探りを入れて、友達を作っていたこともある。
「塩野七生さんを読んだ?」というのも結構使ったような気がする。

ネットをするようになって、全国各地にそういう人たちがいることがわかった。
あの頃、インターネットがあったら、もっと早くに知り合っていた人たちもいたかもしれない。

厨房のみなさんと、出発点は同じなのかもしれない。
そこで犯罪行為へ走るのと走らないのの境は何か?
ありきたりだけれど、常識のあるなしか?
合宿スレを読んでいて思うのは、境界線上の方々も
けっこうそういう行為をしがちだということだ。
病気まで行かないけれど、そういう傾向のある人はたくさんいる。
何かをきっかけに、その面が大きく出てしまうことがある。
それに対して常識をふりかざすだけでは、対処できない。
対応に知識も必要だと思うのだった。
(よく知って、共存することが必要だと思う。これはまた別の話)

同じものに「萌える」人とは良い友達になることができる。
しかしこれも一転こじれてしまうこともある。個人的な大事な事柄であればあるほど、
こじれてしまうと大変かもしれない。実際の恋心と同じ。
人の心は、だからおもしろいし、やっかいなんだけれど。
そういうトラブルから超然としていることもできる。
でも、じつはそれもおもしろくないなあ、と思ったりするので
結論のでないまま、この話は終わるのだった。