某Nさんのご厚意で、山岸さんの初期の作品をたくさんお借りしました。 今のところ本になっているものだけ読んだのだけど、おもしろかった! 「ラグリマ」「白い部屋のふたり」「ひまわり咲いた」 「アラベスク」はリアルタイムで読んでいたし、それ以前の作品も 読んだことがあると思い込んでいたけれど、 未読のものがありました。
ものすごく不幸な少女の話がけっこうあるの。 救いもなくて、最後は死んじゃうみたいな。 これは、なんでだろう。当時の作品はハッピーエンドが多かったから それに対するアンチテーゼかな? それとも、そういうペシミズムが良しとされていたのかな。 今となっては、その時代の空気はわからない。 どちらにせよ、今読んでもちょっと惹かれる所があるので驚いた。
私は「水の中の空」という短編が当時好きだった。 これも救いはないのね。継母とその子供たちが家にやってきて みんな良い人なのに、うまくいかないまま、最後は悲劇で終わる。 どうしてこれが好きだったのだろう。今読んでみると、ちょっとだけ説明できる。 主人公は水たまりに映った青空を見て、あそこに死んだお母さんがいると思う。 水に映った空は明るく、話の暗さを消してしまうくらいきらきらしたイメージを作っている。 水鏡に映ったものは現実の世界よりも輝いて見える。 当時小学生だった私は、水たまりの空の中に長靴でそっと踏み込んでみるようなことを したことがあったかもしれない。
水や鏡やガラスに映ったイメージというのは、 山岸作品の中でけっこうよく使われるのじゃないかしら。 「白い部屋のふたり」も大事なシーンは背景が水が多かった。 「妖精王」の水鏡とか。誰か検証してください。
「白い鳥になった少女」のパンで超えようとした水たまりにもちょっと惹かれるものがある。 全く関係ないかもしれないけれど、大島作品の中に良く出てきた、室内から高い窓のガラスごしに 見る輝く木々の緑にも、同じようなあこがれにも似た気持ちを感じる。
当時の漫画家さんや読者には、水やガラスを通して何か別の世界を見るという 気分がなかったかしら・・・と思うのでした。
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