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漫画関連ファイル


2000年02月16日(水)
木原としえの世界

最初の出会いは週刊マーガレットの「5600万Kmの恋歌」だった。(1972年)
どことは言えないけれど、すごく好きになって、何回も何回も読み返した。
フィリップが金髪で髪が短くてすごく大人に見えた。
外国へ行ったことも、外国の映画もまだ見たこともなかったけれど、
外国の雰囲気を感じさせてくれた作品だった。

「お出合いあそばせ」で士道不覚悟!という言葉を覚えた。(1972年)
男の子のように見えるまことと当時の自分を重ね合わせて、読んでいたかもしれない。
「あひみての のちのこころにくらぶれば、、」の意味もわからず覚えて、
百人一首が楽しくなった。いまだに『陰陽師』を読むと、この作品を思い出す。

「紅に燃ゆるとも」で、日本の昔のお話も素敵だということを、知った。(1972年)
親と子の愛情と憎しみ。泣きながら仇を討つ悲しくて美しい場面。

「どうしたのデイジー!?」は楽しかった!学生牢でさえ、どこか素敵。(1973年)
このあたりで、フィリップが、ビョルン・アンドレッセンをモデルにしていることを知った。
ヴィスコンティの映画を見て理解するには、まだ幼すぎたけれども。

「愛は不死鳥のように」で泣いた。(1973年)憎まれっ子のナチスドイツのことも
当時は全然知らなかったけれど、ナチスの功罪は置いておいて、あの軍服が
かっこいいと思った。戦時の緊張感と、終戦後の開放感までも感じとっていたように思う。

「エメラルドの海賊」で、私は緑色が大好きになった。(1973年)
連載第1回のカラーページが美しかった。深い深い海の緑色。アスールの赤い服。
そして、「私の故郷は外国、潮路の果て、、、」の詩は、遠い国へのあこがれを
私の心の中に根付かせたように思う。

プレシベリエールという言葉の響きが好きで、どういう意味があるのかずっと
知らなかったけれど、やがてそれが「アンジェリク」へ続いていることを知った。
「アンジェリク」は高校生の頃、全巻揃えて熟読した。
あの本からフランス宮廷の爛熟した文化だの、スルタンの後宮だの、海賊のかっこよさだの、
新大陸の冒険だの、いろんな方面への興味が育った。


木原としえの世界(続き)

木原さんの作品を読んで、自分の世界の領域を広げることができたように思う。
たくさんの種が作品の中にあった。
読者の中にはそれを育て、花を咲かせて、あらたな種を作っている人もたくさん
いるだろう。また、創作には向かわなくても、心の中にいろいろな世界を育て
日々、心豊かに暮らしている人も多いと思う。
1970年代初めの木原作品は、私にたくさんのものを与えてくれた。

(以上、SIMAさんのHP「銀河荘」が「木原敏江データベース」としてリニューアルするにあたり、
 BBSに書いた文章を再録しました。2月13日)

1970年代の木原作品が大好きなのは、
それが私の思春期に重なったせいだろうか?
それとも他にも、この頃の作品が大好きだという人がいるだろうか。

2月10日付の日記にまとめたように、1970年代は少女漫画にとって
特別な時代だった。誰も彼もがすごい作品を日常的に発表していた。

萩尾作品を「ポーの一族」と「トーマの心臓」から見てしまうように、
木原作品を週刊マーガレット時代をベースに見てしまうところが私にはある。
それは時間にすればほんのわずかな期間なんだけれど。

木原作品に豆だぬきキャラが出てきたあたりから、私は違和感を感じ始めたかもしれない。
私にとって、木原さんの作品はとても大人っぽい世界だった。
ここでいう大人はやせがまんすることだと思う。いろいろな感情を一度自分の中に
とどめておく。他人には見せない。でも、ふとした拍子にかいまみせる、その時ぐっとくる。

それがだんだん、ためておかなくなっちゃったかな、、、
最初は子供だけだったけど、だんだん、主役のみんなもがまんしなくなっちゃったな。
それはそれで、感動的だったりするけど、、、

LaLaやプチフラワーから入った読者はそんなことはきっと思わないんだろう。
「ポーの一族」の話をしていて、「私が読み始めたときには、もうアランは死んだ人でした」
と誰かが言うのを聞いて、ああ、そうね。私が「トキワ荘」に何も思い入れがないように
「大泉時代」も「24年組」もただの言葉にしか聞こえない読者が多くなってきてるんだなあ、
と思ったのでした。