1974年「ポーの一族」の単行本が発売された時に、 実は週刊少女コミックでは「トーマの心臓」が連載されていた。 「ポーの一族」に夢中になった私は、その時点から週刊少女コミックを読み始めた。 あの話は途中で読み始めてわかるような話ではないので困った。 ある時姉が、「高校のクラスメートに漫画を描いてる連中がいるから、聞いてみてあげる」と言った。 そして連載初回からの切抜きを借りてきてくれた。 「とっても大事な切り抜きだけど、この作品が好きだという子なら 大事に扱ってくれるだろうから、貸してあげるって言ってたよ。」
感謝して、大事に読ませてもらった。読んだ当初は難しかった。 でもくり返し読んだ。
何が中学生の自分をあんなに夢中にさせたのだろうと、考えてみる。 こんなに時間がたってしまった今となっては、はっきりとはわからない。 もう、ポーもトーマも少女漫画の歴史の中で確固とした場所を占めているので それが当時どのように受け入れられたか、今ではわかりにくくなっている。
「ポーの一族」では、時間について考えた。 グレンスミスの日記に関わる人々は自分の時間を刻んでいく、 その時々に変わらないエドガーが現われる。 時間が止まったエドガーは、人間の時間を思い知らせる。 しかしエドガーと同じ14歳の読者は、エドガーに同化できた。 それは一瞬の錯覚だけれど。 やがて窓を閉めてしまうのだけれど。 幸福な錯覚。 バンパネラが血を吸う場面では、現実の壁が一瞬破れる。 異空間が現われる、めまいがするような瞬間。 時間が止まるという錯覚。異空間をのぞく感覚。 そいうものに読者は初めて出会ったのかもしれない。
ところが「トーマの心臓」では、また違う世界が目の前に開いたのだった。 それは心と心の問題だった。何も不思議なことは起こらない。時は止まらない。 異次元の壁も開かない。だけど、心の扉を開くということが どんな冒険にも負けない物語であることを、この作品は教えてくれた。 そして、すぐれた画力と描写が登場人物達の動作のひとつひとつを 読者の心に刻み込み、風や光や物音や心の中のつぶやきでさえ、 まるで本当に起こったことのように読者の中に再現するのだった。
オスカーのカフスボタンが朝の光でまぶしかったことを知っている。 マリエが死んでしまった家の中がとても静かだったことを知っている。 私だけじゃなくてあなたも知っているでしょう?
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