本と編集と文章と
DiaryINDEXpastwill


2001年06月10日(日) 米の味、文の味

ほんとにうまい米は、それだけで食べてもうまいという。
文章にも同じことが言えて、いい文章というのは、刺激的な内容や、重要な情報などを含まなくても読む楽しみを与えてくれる。
そういう正直で素朴な文の力というものがある。
それは誰でもが持っているはずであるが、人の文章を模倣しようとしたり、画一的な教育を受けてしまうと消えてしまう。自分の内発的なものより、既成概念に依存しようとしたとたんに消えてしまうのだ。

しかし、読者は文章を味で読んでいるとは限らない。
ベストセラー作家でもマズい人はいる。
童門冬二、この人の文の味は激マズである。
時代・歴史小説を読み慣れた人は、げっというだろう。
僕は辛くて1ページ読めない。
それもそのはず、口述筆記なのである。
それでも売れてしまうのだからいい、と本人は多寡をくくっているのだろう。
この人の本を立ち読みして、僕のいうことがわからない人がいたら、それは文章の味覚ということがきっとずっとわからない人であろう。

あと、落合信彦。この人の文章は整形に失敗したドブスのようだ。
文は一貫性がなく、いろんなライターがよってたかって書いているフシがある。
文庫本を次々立ち読みしてみたまえ。
みんな違う味がするから。
それぞれがタフでマッチョなイメージを目指しているが、全体にレベルは高くない。
これで売れているのだから、大したものだと思う。


村松 恒平 |MAILHomePage