私季彩々
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久々に大学というものへ行き、研究室や出入りする学生達をみて、自分が失った機会というものを、ほろ苦く噛み締めてみた。
近くにある以前随分通った森は、暖気の中、降り続けるぼた雪に深く埋もれていたが、元気にクロスカントリーを楽しむ高齢者達が陽光に溶けて健康的だった。敬愛する森の師匠は変わらず森の通信誌を綴り続けてらっしゃり、すっかり遠くなった私の脚と目と耳に、1年間のこの森の様を伝えてくださった。
何となく集中してテレビを見る気力がない昨今だが、たまたまみた再放送の「ETV特集スロー建築のススメ▽家づくりの楽しさを建築家・藤森照信が伝授▽クリの木の上に茶室をつくる!構想から仕上げまで1年間▽自分のペースで」が素晴らしかった。楽しむということ、自ら想像すること、創造すること、共有することの喜びがいい男達女達の飾りない姿で伝わってきた。建築番組だが、素直に生きるとは何かを思い起こさせた。
テレビにしろ、森にしろ、過去の後悔にしろ、いろんな機会が転がっている。取り返しのつかないことはそうはない。ふと合わせたチャンネルだけで、人生楽しくなれたりする。ああ、単純とは素晴らしい。孤独という愛しい空間と時間にこそ、仲間を惹きつける幹があるのかな、などと思ったりする。 社会と私は確かに繋がっているが、デジタルのドットのように私は混ざらぬ個でもある。それらが混ざったように見えながら無数の新しい色を織り成すわけで、埋もれている訳ではない。そう思えば、隣近所も愛しき隣人である。デジタル的な考えもまた暖かい。ものは考え様だ。 私は暖かさを求めている弱き人である。ほろ苦き時も、熟成を経て笑い話になろう。クリの木かどうかはわからないが、手作りの人生であれば、そうでしかありえないわけで。社会はその家に繋がるわけだが、電線や下水道ではなく、ソーラーパネルや沢水のように、心地よい恵みとして手間をかけて味わいたいものである。
生きてきた年月は平等であり、比較しても首が疲れるだけである。見回せば何かがある。自分の中にも外にも。想いを込めて深呼吸をする、それだけで人は自然であり、社会と繋がっているのだ。だからこそ、孤独は愛しい隣人でありつづける。クリの木の上は、そんな人と愛の共有された空間なのであろう。
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