私季彩々
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2002年09月19日(木) 朽ちること 育てること

 札幌の観光名所というのはあまりない。がっかり観光地として有名な時計台と、高台の草原にあるクラーク像くらいかもしれない。ついでを言えば北海道大学構内のポプラ並木もあるかも。

 大学の構内にはポプラの並木は他にもあって、よく写真で見るところは歩いていかないと行けない。私はこの並木そばの農場道を1年間歩いて通勤していたので、季節感を込めて愛着があるわけだが、実はこの並木は立ち入り禁止である。
 すでに所々歯抜けになってしまっているのだが、これは倒木やその恐れのために間引かれたものだ。ポプラの寿命は100年もあれば良いほうなので、実はかなり危険。他の場所のポプラも大学創建時の同時代のものだから、かなりがたがきている。そのために、伐採の話があり、すでにその方針は決定済みである。

 これに異を唱えたのが市民団体と一部の教官達だ。維持する努力をすればまだ大丈夫だと言う主張だ。今現在でも大きく開いてしまった幹の洞にコンクリートを詰めたりしており、素人目にもはたしてどういう方法があるのか疑問であるが、札幌の風景の一つとして愛着があるわけだから、できることなら残したい気持ちは同じだ。この方達は大学と対立している。努力が足りないというわけだ。
 当局としては、あんなばかでかい木が突然倒れれば責任をとらなければならないわけで、倒してしまえれば楽という気持ちもあるだろう。それはお役所的で哀しいが、居並ぶ教官達は私も知っている先生達で、単なる責任逃れではない、逃れられない事実であることを証明する存在だと私にはわかるのだが、報道等を見ているとどうしてもそうは見えてこないのが悲しい。市民運動は善という視点が報道にも私にも見て取れる。

 ポプラは成長が早く、開拓期の防風林として適当だった。風貌も優美で、細かい枝を空に突き上げる様は北海道的だ。しかしながら、成長が早く枝振りが細いということは、芯がしっかりしていないということで、樹の肌はもろく、洞が開けば中はスカスカだったりする。明らかに寿命なのだ。感情論など入り込まない自然の現実だ。

 100年とはいえ、シンボル的な存在であるポプラに寿命があることはわかっていたはずだ。伝統ある農学部を抱え、広大な演習林を有する大学が、自らの構内にある木々の寿命を見送るだけというのは寂しかったと思う。しかたないとはいえ、市民団体の感情論は誰もが共有している。やはり専門家であると同時に、感情的な市民としての大局観が欲しかったところだ。若い研究者がはずれの道にひっそりと苗を植えていて、大きく育ってきたなんて素敵ではないか。事務方は怒りそうだけれど、それでこそ大学だ。
 並木は朽ちる。同じ所に若木を育てることは難しいかもしれない。ならば、別の場所に新しい並木を作って50年交代にしたってよかったのだ。建築物と違って自然物を名所とする札幌は、そのような視点も必要だ。原生林ではないのだから、人の手と計画はやはり大事であり、それこそ自由な専門家たるべき教官がなすべき仕事のはずだ。

 大学構内は本当に素敵な環境だ。緑も豊かで、古い建物も情緒があり、季節によってはそこらでジンギスカンの煙が昇る。スケッチや油絵を描く人も多い。
 最近では新しい建物がどんどん建っていく。空き地であった憩いの場は消えていく。集約化されて古い建物が消えていくのはもう少し先なのだろう。
 しかしながら、歴史ある建物もポプラやハルニレのような木々も、大学設立当時からあるものだったり、その当時に植えられたりしたものだ。まだまだ自由も余裕もある雰囲気だったのだろうが、今行われていることが、50年100年後に伝える景観たるのか。

 経済的に貴重な空間であるのは確かだが、愛すべき智と憩いの空間であるのもまた確か。100年後を見据えて育つ苗木を今こそ植えて欲しい。 Home&Photo


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