私季彩々
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| 2002年03月25日(月) |
吾の汚れのみが過飽和する水をじっとみつめる日曜の午後 |
今時、二槽式の洗濯機を使っている人など極少数と思うけれど、サイレントマイノリティーを自負する私は相変わらず愛用している。私のところに来た時点ですでに10年以上の齢だったから、すでに20を優に越える御歳だ。
まわる水の流れに何となく見入ってしまうという人も昔は結構いたように思えるけれど、今ではそれも少ないかもしれない。全自動洗濯機では、蓋を開けて覗くなんて可能なのだろうか。 ほったらかしにしていた洗濯物を投げ込んで、真っ白い洗剤を入れる。一瞬白く綺麗な色になったかと思うと、薄汚れた濁りが水を支配していく。自分の汚れが溶け出していく瞬間を、私はたまらなく愛しく思う。 単調なモーター音が停止して、逆周りが始まる。波がほんの一時止まって、再びまわり始める。催眠術にでもかかったような気分なのか、タイマーが止まっても余韻に浸りながら眺めていたりする。
脱水を終えてすすぎにはいる。始めは濁っていた水が、段々と澄んでいく。流しすすぎはよくないと思いつつ、濁りが消えていくのは気持ちがいいものだ。けれど、天邪鬼な私はそれが許せない時もある。濁らない服を身に付けることが偽善に思えたりする。そんな時は水道を止めて溜めすすぎ。何、ほとんどはこれで十分なのだから、水節約には、多少汚れた人らしい心をもっていたほうが地球にやさしい洗濯ができる。
ポタポタと規則的にもれる水滴音にいらついたり、川のせせらぎに癒されたり、汐音に感傷的になったり。水音というものはヒトの深層心理に深く忍び込む。目を閉じても波紋が揺れるような、血液の流れを泳ぐような、羊水の中に浮かぶような。 そんな水の心象の中にある洗濯機の場合、私は目を開いてその流れをのぞいている姿しか浮かばない。これは心象とはいえないのかもしれない。何か不思議な気がするこの感覚はなんなのだろうか。
洗剤を入れた瞬間離れゆく その潔き汚れぞ清し
吾の汚れのみが過飽和する水をじっとみつめる日曜の午後
すすいでも残る濁りは消えきらぬ人の汚れと安心してみる
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