私季彩々
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2002年01月08日(火) 年を経るもの 

 「まだこんなものがあるのねぇ」
 先日来た母が嘆息していた。部屋にある食器や棚などはすべて10年前に実家から持ってきたものである。こたつも麻雀ができる裏が緑の懐かしいもの。実用一点張りのスチールラックなんかはウルトラマンのシールが切れ切れに残っている。
 洗濯機は私ですでに3代目で20年に届くかも。テレビだって10年になる。電子レンジも貰い物で10年以上昔の記録は不明。

 こんな部屋は実家以上に年季が入っていて、若若しさの欠片もないのは至極当然。物持ちのよすぎる息子に嘆息もひとしおでしょう。

 でも、だって使えるじゃん。使えるものを捨てて新しいものって考えられないのよねぇ。おかげで金が溜まる・・・・、訳もなくかえって収入が減っていくというデフレスパイラルに勝手に陥っているのが現況。

 古いものが味を出してくるというのも確かにあることで、古具屋などに行くと、ちゃぶ台や和家具がかなりいい値段で売っていたりする。では、我が家にある年代もので、その手になる可能性のあるものは・・・、うーーーーん。

 「これ、結婚した頃のやつよ」
 そういって母が手にしたのは木のまな板。そういえば普通売っているまな板は白木でかなり肉厚なものが多いが、うちのはもう20mmもないぺらぺらである。話によると、汚れが目立ってきたり中央がへこむとカンナで削って使ってきたという。

 ものというのはただ放って置けば味が出るというものではなく、磨いたり削ったり補修したりして手をかけていかなければ、ただ古びていくだけだろう。
 100年を越える日本家屋は入れ替えるところを入れ替えて、日々の暮らしがそのまま除湿や防虫効果を発揮して永らえたわけだ。欧米の家が100年を越えて持つ財産なのに対して、日本は20年も経てば建物の価値はほぼなくなってしまうという。それは材質の為でもあるが、細かいところに手を入れる事が出来なくなったためではないかと思う。
 何より味がないではないか。伝統家屋と今の家に連続性は思い当たらない。

 まな板から飛躍のしすぎだけれど、一枚の木の板くらいしか味のある褪せ方をしそうなものがない。安物買いの我が生活ゆえとはいえ、そこそこの時を生きたのだから何か一つくらい自分で磨きをかけているものがあってもいいと、ちょこっと思ったりしたわけです。


 削りつつ四十を過ぎしまな板の薄きに母は今日も湯を掛く Home&Photo


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