私季彩々
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スタッドレスタイヤが未だにないので、車に乗るのが少々怖い。それで遠出する時は地下鉄とバスという事になる。 地下鉄はいろんな人が乗る。4年前は通勤に使っていたわけで、何となく懐かしい。混まなければ乗り物好きな私にとって、退屈しない空間だ。隣に座っている、ちょっと太目の女の子が歌集を読んでいるのを横目にみて、果たしてどんな歌集なのかと想像をしてみる。これが寺山修司とかだったりすれば、その場で告白してもいいくらいだろうが、淡い恋歌であろうと思われたので止めておいた。
札幌の地下鉄は途中から高架を走る”地上鉄”に変わる。少しづつ重力を感じながら、夜景の中に飛び込んでいく瞬間というのはなかなかいいものだ。この時だけでも車内を暗くしてくれたら、お役所もなかなかいい演出をするわいと思うのだけど。 澄川駅で降りると、いつも寄るフードセンターが取り壊されていた。
そこからはバス。青みがかった薄暗いバスの中というのは、なんとなく異世界めいている。人の顔もそんな感じで、いつも元気な女子高生も、どこか家路に着くのがうっとおしいような気だるさをまとっているような感じがする。 家に辿り着くことが小さな幸福の形のようにいわれるけれど、多くの人にとってそれは事実なのだろうか。新婚家庭に帰る夫ならいざ知らず。子供達にとっては自分の部屋こそよくても、居間はめんどうかもしれない。一人暮らしの若者にとっては、家に帰ったって大差はないかもしれない。そんな人たちが、惰性で乗っているバスの中。青みがかった水槽の中にいるような、まどろんだ光景を眺めていると、窓の外までそんな風に見えてきた。
そういえば、リストラにあったお父さん達が、再教育とかで自分の夢をプレセンする、というのがあるそうだ。そんなななか、ほとんどの人たちが描くのは、暖かい家庭の団欒。郊外の一戸建てで子供達と暖かく戯れる。 裏を返せば、そういう絵を今まで描けなかったという事だろう。けれど、自分という個人を問われるのが仕事であって、就職という個人の事情を棚上げしなくてはならない時に、これらの絵が何の支えになるのだろう。団欒が支えになるのならいいけれど、これからその団欒を作ろうというのは大変な事だ。 そして、子供達はお父さんとキャッチボールをしたがるのか。川に釣りに一緒にいってくれるのか。子供達のためにという匂いを漏らした途端、父を疎ましく思うのではないか。自分達を生甲斐にするなと。
現実は残酷。私はキリスト教者ではないが、神の前で信仰を告白するのは、ただ一人であるということには共感を覚える。世は独立した個人から成る。けれど一人では生きられないから、誰かのために生きたがる。その揺らぎが人だとすれば、特に父に託された厳しさは、頼られる芯を強くもて、ということだろう。揺らぐ人間にあって、揺らぐなと子は言うのだ。これはつらい。
バスという水槽にあって、ふらふらと漂うネオンテトラであってはならない。そうであるならば、あえてバスを降りて歩くべきだ。自らの脚で。
リストラに会いし父等の夢”団欒” 子等はその絵を捨てて久しく
6時発 団地行きに乗る父達よ そのバスを乗っ取ってみないか
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