私季彩々
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2001年11月10日(土) 名刺

 古い友人達と飲むと、大抵は近況なんかを尋ねあうものだ。そうするとみんな名刺を取り出して交換となる。これが結構うれしいらしく、今まで話していなかった人の名刺まで順繰りと回ってきたりする。その時だけは正座をしてお互い頭を下げてみたり。社会人という姿を最も身近に感じたのはこの時かなと思う。

 名刺には大抵所属する会社名や部署、役職なんかが書いてあったりする。資格があればそのようなものも。会社の住所、電話番号、メールアドレス。最近では裏に英語が書いてあったりする。

 一番大きく書いてあるのは本人の名前ではあるが、最もおまけ的なものもまた名前ではないだろうか。どこで何をしているかが興味の対象であって、それらが目の前の彼以上に圧倒的な情報量を持っているように思えてしまう。

 一流企業の設計部門、営業部門、アドバーイザーにシステムエンジニア。とにかく頑張ってるしかっこよさそう。市役所、教育委員会。まぁ勉強頑張ってたし、やっぱ堅そうね。有限会社・・・、大丈夫なん?

 名刺交換をした時からどこかで値踏みが始まっている。過去の思い出話も尽きれば、手にした現在が歴然と目に入る。もちろんその名刺を折られた事も、ポケットの中で悔しさと一緒に握りつぶしたことだってあるかもしれない。何百枚と刷りながらも一枚の重さは軽い時ばかりではない。

 渡辺淳一氏は 名刺を作ったときに”作家”としか入れられず、あまりの空白の多さにうら寂しくなったと述べている。周囲に散りばめられた文字は社会的接点と信頼感を錯覚させるに十分だ。何より寂しがり屋で、はかない存在である”私”がたった数センチ四方の長方形の中で孤立している。だからといってスペース一杯に名だけ大きくしたところで、ただの間抜け。

 自分を表現する簡潔な記号を持たない私達。すでに名前はほとんどの人々にとって失った尾蹄骨程度のものでしかない。だとしても、私達はその底にある個人に憧れを持っている。恋人だって結婚相手だって、波間に垣間見えた人間性を信じ込む一過程に過ぎない。

 であれば、明日消えてしまうかもしれない、固定されたと勘違いしている肩書きは全て消してしまい、明日現れるかもしれない自分を毎日書き換えていくなんてかっこいいのではないか。それがまた別の肩書きであってもかまわない。

 今日は営業の達人。明日は窓際の掃除屋。あさっては吟遊詩人。社会の中に生きる私達にとって、核となる名前は意味がなく、ふらふらまわる衛星こそ表現ということだろうか。でも、名刺に刷られた文字たちに踊らされるくらいなら、踊る言葉くらい自分で自発的に作ってしまいましょう。


 名刺なんて いらない そこに 君はいない 爪跡残る無地こそ ください Home&Photo


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